地球なんて、国なんて、壁がないだけで、しょせんはひとつの大きな密室だった。どこへ逃れることもできない。本当にこの星や宇宙が無限のもので、逃げ出す先がどこかにあったなら、神さまや、あるいは彼の存在を疑った海のように心の広い人は、とっくにそこに逃げ出してしまっていただろう。そこを、短絡な人間は楽園と呼んだ。
 悲劇はいつも楽園で生まれるから、人間の生活はときどき幸いだ。この世にあるすべての悲劇は、高尚な何物かの真似でしかない。だからうっかりやってきた悲しみは、ぐしゃぐしゃと丸めて捨ててしまうに限る。



 足元が白く煙るほどの雨に追われて、ようやくエントランスに逃げ込んだ頃には、髪も服もすっかり濡れてしまっていた。まるでざぶりとそのまま水に浸かったよう。今年の梅雨は降ったりやんだりと忙しなく、今では夕立にもすっかり慣れてはいたけれど、この雨はいささか反則じみている。よりによって今日でなくてもよかっただろうに。二人とも傘を忘れていて、降りだしたのは駅を出てからで、もうひとつ言い添えると、今日は七月七日、七夕だった。

 玄関の扉が閉まる音に、ほっと息をつく。帰りつくたびに、何かに救われたような気になるのだ。囲いがなくとも、密室でも、世界はあまりに広大だ。誰かの手が欲しい、寄り添いたい、肩を預けて泣いてしまいたい。それは小さな人間なら誰しも思うことだろう。
 俺には佳明だった。それはどうにも動かしようのないことであるのに、誰かが許してくれない。無名の誰かは、恐ろしい。彼に、あるいは彼らに、知られてはいけない。俺が佳明を望んでいることを、佳明が俺を欲してくれていることを、彼らが嗅ぎつけたが最後、ここにある平穏はその皮膜を失ってしまう。

 歩くたび、髪から服からぽたぽたと床の上に水が滴った。降り始めたかと思うと、どこかに逃げ込む暇を許さないで瞬く間に勢いを増した雨のせいで、どこもかしこも濡れてしまっている。肌に張りつくシャツが気持ち悪い。
「つめたいな。橘、寒くない?」
「寒い」
「風呂入れば。あったまってこいよ」
「佳明は」
「一緒に入ろうって?」
「ばかじゃないの」
「いいから早く。風邪ひくだろ。お前のあとで俺も入るから」
 溜め息さえさらってしまえそうな、熱い息を吐く。冷えたとはいっても、しょせんは夏の雨だ。肌の上にある熱がさらわれただけで、凍えるということはない。もっと凶暴で容赦がなくて、あらいざらいを奪っていくようなものなんて、他にいくらでもある。そういうものからお前を守ってやりたいよ。けれどふたりでいては叶わない。お前なしじゃもうどうにもならない俺なのに。
 もつれた糸に嘲笑われているみたいでもどかしいのは、きっとお前も同じだろう。俺が俺でなかったら、なんてことを考えたことはないし、嘘でも口にしたなら佳明に叱られてしまう。
 水に濡れた布は、あちこちに絡みつこうとする。冷たくて気持ち悪い。結び目のきつくなったネクタイをほどき、未練たらしく肌に張りつくシャツを脱いでしまう。まとめて洗うから洗濯機に入れといて、と見当違いのことを言う佳明に、丸めて投げつけた。
「寒いからあっためて、なんて、官能小説の台詞みたいで言いたかないんだけど」
 ほんの一瞬、佳明が言葉を失う。
「……みたい、じゃなくて、そうだろ。やること一緒なんだから」
 それもそうか。



 肌に鼻を押しつけると、深く水の匂いがした。まだ外にいるみたいだ、と思う。果てのない密室の中のはりぼてで、世界の目を盗んで求めあうのだ。誰にも知られてはいけないし、そんなことがあってたまるかとも思っている。俺だけが知っていればいい。佳明の目、そうそれ、いっぱいいっぱいの、追い込まれた、引き返せない感じ、好きだ。
 うなじにかけた手にぐいと力を込めれば、しかたないな、というふうに唇が降ってくる。目蓋に頬に、唇に、顎のラインに沿って下って、首筋に、浮いた骨に。
「痛いよ、佳明」
「痛くしてる」
「俺別にそういう趣味はない」
「ごめん、たぶん俺にはある」
 何てことだ。この駄犬め。
「俺がきゃんきゃん鳴いてたら喜ぶの」
「そういうのは、いいかな」
「じゃあやめてって泣きつけばいい? 涙いーっぱい溜めて?」
「それはそれでいいかもしんないけど……積極的に泣かせたいわけではない」
「どうしろと」
「どうもしなくていい」
 顔にかかる髪をすくうように撫でられる。
「橘は、橘で、いい。それをこう、痛めつけてやりたいし、甘やかしてもやりたい。泣きたいなら泣けばいいし。気持ちいいなら溺れてて」
 愛と欲とを露骨に結んで、がりと爪を立てられる。は、と殺しきれなかった息が漏れた。
 押さえつけるように添えられている手のひらが痛くて熱くて、気が狂いそう。いやとっくに狂っているのかもしれない。何に。お前に。そうだったら、いいな。
 舐めて齧って触って。つくりかえられてくみたい。集まり過ぎた熱に、頭がぼうっとする。
「佳明、しつこい」
「うん」
「いや、うんじゃ、なくて」
「だって、お前に触ってるとあったかくて気持ちいいから」
「あ、そ」
「もしかして、あんまり余裕ない?」
「余裕なんて、いつも、ない」
 熱をもった手のひらが肌の上をすべる。雨音がいっそう遠くなる。
 痛いのが好きなわけじゃない。それでも噛みつかれるのも爪を立てられるのも、何もかもを許してるのは、お前だから。お前のことがたまらなく好きだから。その辺り、ちゃんとわかってんのかな、お前。



 再び冷えはじめた肌に頬を押しつけて、血の巡る音を探す。俺は俺の、佳明は佳明の速さで生きている。その歩調を揃えることができないなら、ずっとふたりきり閉じこもって、かたく目をつむっていたいくらい。計算高くあれ、そうでなければ、あっという間に飲みこまれる。それを嫌うなら、盲目でいるしかないのだ。あるものをあるだけ汲み取って、控え目な呼吸を重ねて、ほんの少しの露だけを唇にこぼして。
 なのにこんなにも雨がきれいだ。
 孤独に耐えることと同義であるはずなのに、生きること、はときどき俺をすくい上げてみせる。
「雨やまないな、七夕なのに」
「何がだめなんだっけ、雨だと。天の川が溢れるから?」
 発せられた音が肉や骨を震わせるのを、直接耳から拾う。くすぐったくってずっと聞いていたくて、何だか泣いてしまいたい。
「忘れた。なぁ、織姫と彦星ってさ、別に会わなくても平気なんだろうな」
「そんなことは、ないだろ」
 顔をあげて、佳明の頬に手を伸ばす。からかうように踊らせた指先を捕まえられて、ちう、と一舐め。熱い舌に指を絡ませると、たしなめるようにやわく噛みつかれた。それが、甘ったるい言葉を囁かれるより、ずっと愛だと思うから、どこか得体の知れない場所が痛む。
 逃げ出したい。どこだっていい。でもお前がいないと嫌だ。
「俺は佳明に一年も会えなかったら、生きてけないよ。雨が降ればまた一年、だなんて、それを待つ前にどうにかなってる」
 愛しい、恋しい。どれくらい、なんて聞くなよ。言葉じゃ足りない。いつでもお前が足りない。




此岸より彼方へ


110709 | ことり