ぺかぺかと何もかもが眩しいドラッグストアの床の上、眠たい目を細めて、背の高い棚の間をうろうろと動き回る。まるで投薬される前のネズミ。四角い壁に囲われてかりかりと爪を立てることもできない。
 歯ブラシと目薬、コーンフレーク。手にしたかごに落としていく商品の、鮮やかなパッケージ。まるでここには何もかもがあるみたい。何もないのに。
 本当に軽やかに生きていくときには、未練のない富と、あとは何が必要だろう。覚悟、はきっといらないだろう。身体さえ、心さえ、もたないのがいいのかもしれない。水と小麦、ああ、そうだきっと信仰もいらないだろう。愛する人もいない方がいいだろう。
 その点俺はだめだった。俺は橘を愛しているし縛っているし、橘だってそうだ。重たくってしかたがない。

「佳明、見て見て。すごい色」
 橘の声が、俺をかき混ぜる。はっとして、ぼんやり眺めていた洗剤の山から目を離した。
 目の前に掲げられた橘のしなやかな指の先、薬指と小指の爪に、頓狂な色がついている。赤と、オレンジ。どうして、また。
「何してんの」
「マニキュア」
「見たらわかるけど」
 左手の二本の指だけ、それも違う色。透明色のエナメルの向こうに月が透けている。原色のわりに色づきは淡いものであったけれど、それでも明らかに生爪とは違う色をしている。どうすんの、それ。言うまでもなく、うちに化粧品の類はいっさいない。お前、今日泊まるっつってなかった。どこで落とすんだよ、その色。
「きれいだよな。女の子、ってこういうのが好きなの?」
「俺が知るわけない」
「じゃあ佳明は? こういうのに惑わされる?」
 ひらひら。手を振ってみせる。赤もオレンジも、果物の色だ。舐めたら甘くて、齧ったら果汁が滴る。でもそれは毒々しい何か。強い刺激臭のする、科学的な何か。
 薄っぺらい皮膜一枚に踊らされる人間という生き物はとても愉快で、俺はそういうものに生まれついてよかったと心底思う。色のついた爪には特別心惹かれないけれど、橘のしでかすことは何もかもが愛しい。
「俺はお前に惑わされてたいよ」
「なら一生懸命誘惑しよう。でもこれはやめよう。女装趣味の変態だと思われる、かもしれない」
「俺は思わない」
「世間様は?」
「見せないから大丈夫。ていうか、何度も言うけど、俺はお前を閉じ込めときたいんだよ。どこにも出したくないし、誰にも見られたくないし、俺だけ、にしておきたい」
「俺の知る唯一の人間になりたい?」
「そういう願望もあるかもしれない」
 飲みこんだ方がいいのかもしれない言葉の群れは、ひとつとして躊躇してくれない。煙のようにするすると這い出てしまう。好きも愛してるも、縛りたいも抱きしめたいも、全部溢れて止まらない。ダムの仄暗い穴に広大な水が落ち込んでいくみたい。お前を押し流して沈めたい。息さえできなくなってくれて構わない。本当ならお前を生かすものはすべて、俺が手ずから与えたいくらいなんだから。

 すい、手のひらが逃げていく。色づいた爪をしげしげと眺めて、そういえばこれどうしよう、と橘はようやく思い当ったようにつぶやいた。
「お前んちに落とすやつ、あるわけないよな」
「ないな。後先考えないからそういうことになんだよ」
「だってうちにはあるからさ。いったん帰ろうかな」
「買ってけば」
「一回きりにもったいない」
「じゃあマニキュアも買って。赤がいい」
 橘がうろんな目をこちらに向ける。冷やかと言ってもいいくらいの温度。そういう意味じゃないんだけどな。いややっぱりそういう意味かもしれない。
 俺の背中にはまだ爪あとが残っている。傷の治りはそう遅い方ではないと思うのだけれど、橘の激情はそれに追いつかない。
 橘の両手はいつでも凶暴で遠慮を知らなくて、俺は未だかつて無傷のままそういう行為を終えた試しがない。背中に肩に腕に、ぎぃと線をひいて、浅く痕を残して。薄く滲む赤やひきつれた皮膚。ふいにやってくる痛みは、俺を引き戻すことはなくて、逆に深みに突き落とす。溺れる最中、伸びる指先に、息の根を止められる。その指先が赤ければ、きっと視界の隅でちらちらと鮮やかだろう。凶暴な色をしたその爪で、淡い傷をいくつもちょうだい。ためらい傷みたいな、無残な痕をいくつも重ねてほしい。



 空調の効き過ぎた店内と、外との落差があまりに激しくて、いっそ何かを呪うような気持ちになる。自己主張の強過ぎるあの太陽、早く沈めばいいのに。アイスクリームを舐めながら、歩道をだらだらと歩く。日陰はあまりない。
「クラスのやつがさ、これ、果物が入ってなければ完璧なんだけど、って言ってた」
「果物? 小豆じゃなくて?」
「うん。おかしいよな。これがうまいのに」
 さり、と冷たい歯触り。甘い塊が遠慮のない陽射しに溶かされていくにつれ、次第に口数は少なくなっていく。あぁ、また、指どころか手首までべたべただ。
 肌の上に残った甘さを舐めとっていると、じぃっと注がれる視線を感じた。妙に気持ちが騒いで、手にした買い物袋を持ち直す。結局、除光液は買わなかった。明日落とすからいいや、と。橘の指先はきらきらと赤い。そうか、片方はオレンジだったか。果物の色、太陽の色、血の色。やっぱり、その爪を染めるなら、赤色が一番好ましい、と思う。
「俺だって、お前を閉じ込めときたいよ」
 木の棒をがりがりと齧りながら、橘が言う。
「え、あ、さっきの続き?」
 そうだよ、と目で答えてみせる。
「誰にも会わせないで閉じ込めて、俺の名前だけ呼ぶようにして。全部全部、俺だけにしたい。お前が俺を縛りたいのと同じくらい、俺だってお前を縛りたい。でもって、縛られてたいんだ」
 アイスの甘ったるさの名残だけじゃない何かで、舌の根元がべたついて、言葉がもつれて絡んでしまいそうだ。
 縛りたい、縛られていたい。自由になんてなりたくないし、軽やかさなんて微塵も望んでいない。鎖と楔と傷と瘡蓋と痕と、あぁ、もう、何でもいいから、お前をがんじがらめにしておきたい。




いつまでも縛りたい


110705 | ことり