空が傷んだ。針の穴のようだった星が、ひとつ、またひとつと落ちて、夜はただ黒いものになる。フェンス越しに見る夜空は、ガラス越しのそれよりいくらかきれいだったはずなのに、改めて見てみるとそれも疑わしかった。ねとり、としているのだ。指先を指し込んでかき混ぜれば、糸を引きそうだった。浅ましい匂いさえするようだった。
 俺がいるだけでは、お前の世界には不足が多い。それでいい。感情を多く持ち合わせているのは好ましいことだ。どれかひとつが枯れても、その他の大勢がお前を生かしてくれる。それでも、好きとか、愛とか、そういうものは、俺にだけ傾けてほしいと思う。心にナイフをいれて、二等分、それでもまだ足りない。血の滴ってぬらぬらと赤い、そのままの心がほしい。
 空が黒い。星がひとつも見えない。




 一年生の頃、よく話をする知り合いがいた。彼女は幽霊部員ばかりの天文部員のなかで、珍しく熱心に部室にやってくる生徒だった。部室にやってくるだけで、星には疎いらしく、夏の大三角形でさえうろ覚えであったのには驚いたけれど。
 ベガ、アルタイル、デネブ。図鑑を指さして、名前をなぞってやると、つたない声でそれを反復した。
「佐崎くんは、物知り?」
「そんなことない」
「でもデネブを知ってる」
 ふふ、と笑う彼女は、いつまでたっても星に疎いままだった。部室へやってきても、天文部らしいことはろくにしない。数学のノートを広げてうつらうつらしたかと思うと、退屈そうに携帯電話を眺め、それにも飽きるとようやく星座図鑑をめくったりなどしていた。
 決まって彼女は、廊下の向こうから響いてくる金管の音がやむ頃に、手早く荷物を片付けて立ち上がる。
 別れ際に、じゃあな、と言葉を交わすことはなかった。彼女はいつも、何も言わないで帰っていった。

 オリオンが空に昇るようになる頃、その名前さえ満足に知らない彼女は言った。好きな星を見つけた、と。




「リギル・ケンタウルス」
「何それ、必殺技?」
「ちげーよ。星、星の名前。ケンタウルス座アルファ星」
 ねばつく夜は短い。フェンスにかしゃりと指をからめて、真っ暗闇を仰いだ。なんにも見えない、曇ってきたもんな。それにしても暑いな。
 シャツの襟元を引っ張って、風を誘う。いくら涼を求めても、これだけの暑い大気のなかにあっては意味のないことだった。陽が沈んでいくらか経ったというのに、熱の冷める気配はない。眠らない地平の上に再び朝がやってきて、くるり、くるり、作りかえられないまま世界が動いていくんだろう。
 俺の背中をじっと見ている佳明の視線を感じる。穴が開くよ、と軽口を叩けば、それは困る、と返された。それでも視線は逃げていかない。星はないけど、夜でも見てろよ。足元の灯りはお世辞にもきれいとは言えないけれど、それでも目を細めて滲ませれば、ちらちらとした光が渦巻いて、悪くはなかった。
 まぁ、いいけど。
 コンクリートのタイルの上に降りて、佳明の隣に腰を下ろす。広い手に引き寄せられるのは、予想していたことであったし、期待していたことでもあったので、遠慮はいっさいせずに身体を預けてしまう。間近で触れる肌は熱い。このまま溶けて、夜にも溶けて、清いも濁りもない、何でもないものになれたら。
「ちょっとしか離れてない二つの星で、肉眼じゃまず二つには見えない」
「そう」
「はは、とことん興味ねえんだな」
「正直な。晴れてたら見えんの?」
「見えない、沖縄より南じゃないと無理」
「何だそれ」
「そうだよ、見えないんだよなぁ」
 いつまでたってもアルクトゥルスの位置さえ覚えなかった彼女が、日本からは見えない星について語ったこと。そのときは何とはなしに聞いていたのだけれど、思いの外しぶとく記憶に残っていたらしい。
「星になりたい、なんて、ばかげてると思ったんだけどな」
 溶けたい。消えたい。ひとつになりたい。
 今ならわかる。彼女はきっとせつなかったんだ。
「は……?」
「だから、星になりたいんだって」
「お前が? 何で?」
「俺じゃないけど。でも、何でかはわかるかも」
 たぶん、その片方になって、ひとつのものとして見られたかったんだろう。収まりのよい自然なかたちを得て、誰かの隣で、ふふ、と笑っていたはずの、星を覚えなかった、彼女は。
 いいなぁ、リギル、いいなぁ。しきりにそう口にしていた彼女はやがて、ぱたりとリゲル・ケンタウルスのことを口にしなくなり、部室に来ることも稀になった。そうしていつの間にか、天文部もやめてしまったらしかった。
「星なら何でも、ってわけじゃなくて、リギルがよかったんだよな」
「さっきから、何の話」
「失恋しちゃった知り合いがいるんだよ。一年生の頃の話だけど」
 彼女は今ではもう、星になりたいなんて思ってはいないだろう。
 あのときは気のない返事をしてごめん。今なら少しだけわかる。欲張りな俺は、星よりは、人のかたちをしたままで、佳明のそばにいたいけれど。




22秒角のふたり


110702 | ことり