それはきれいな箱。表面はつるつるとしていて、不用意に障るとべたりと指紋で汚してしまう。だから角に指先を這わせて、そうっと持ち上げなくてはいけない。降ってみるとちゃぷちゃぷと音がする。水が入っているのだ。塩水かもしれないし、砂糖水かもしれない。透明なのか、色のついた水なのかもわからない。向こう側を透かさない箱の中身は、想像してみるしかなかった。臆病な俺は、それをただの水だと思う。無色で、透明で、ただの水の味しかしない、そういうもの。
「なぁ何読んでんの」
「サン=テグジュペリ」
 ベッドにもたれかかってページをめくっている佳明の肩に腕をまわす。首筋はうっすらと汗ばんでいて、剥き出しの肌がひたりと張りついた。それでも、暑いから離れろ、なんてことを、俺は言われたことがない。
「星の王子さま?」
 わがままな花の話をお前がしてくれた。なぁ、この花、橘みたいだ、とお前が言ったことも、俺はちゃんと覚えているよ。お前は、橘は俺に弱いところを見せてくれるし、ひとり残されるなんて死んでも嫌だろうけど、とも言った。
 わがままで、高飛車だけれど、あいを知っている花だった。
「違うやつ」
「どんな話」
「人間の話、かな……」
「ふぅん……悲しい?」
「悲しいかもしんないし、そうじゃないかもしんない」
「人生みたいだ」
「言っただろ、人間の話だって」
 ページをめくる指先に触れる。そのまま指をからめると、文庫は佳明の手から滑り落ちた。虫ピンで縫いとめられた羽のように、ばさりと床の上に広がる。
 広い手の甲を指先で撫で、爪の形をなぞり、すくい上げるようにもう一度深く指をからませる。きゅうと力をこめる。きつく握ってみる。
 お前に触れることはこんなにも簡単なのに、なぁ触ってよとねだることも簡単なのに、自分の心の輪郭に触れることがあまりにも難しい。正しい付き合い方がわからないのだ。つんと澄ました真四角の側面を汚さないで、中身だけを飲み干す方法を知らない。爪の先で何度も試すようにひっかいては、手を引っ込めてしまう。
 でも、それでも、いいだろうか。あいを知らないでも、いいだろうか。
 俺はお前と一緒にいると、得体の知れない感情に出くわすことがある。それは悲しみかもしれないし、そうでないのかもしれなかった。それはつまり、俺は生きてるってことだろう、お前と生きてるってことなんだろう。




花じゃないよ


110629 | ことり