頭からぬるい水を浴びて、汗だとか砂埃だとかをさっぱりと洗い流してしまう。グラウンドの熱にぼうっとしていた思考がはっきりとしたものに帰っていき、日常というものを手探りし始める。夕飯は何にしよう、冷蔵庫に何が残っていたっけ、橘、今日はどうすんのかな。父さんは今日帰ってこないはずだから、一人なら適当に済ませてしまっても構わない。
 学校と部活が終わってからの、夕方の時間のことをあれこれと考えるのは楽しくて好きだ。そこには決まって、橘、お前がいるから。せつない、という感情は留まるところを知らないで溢れ出すので、いつまでたっても消化できず、いっそ腐ってしまいそうなほど。どろどろ。底の方にあった、一番初めのものが何だったかなんて、もう覚えていない。
 泣かせたり、困らせたりするのだって、じつを言うと嫌いじゃない。むしろ歪んだ橘の表情を見ているのはとても好きだ。それでも、笑ってくれたら嬉しいし、かわいくって抱きしめたくって、ついつい甘やかしたくなる。よし、橘が食べるんだったら麻婆茄子、そうでなければそうめんでも茹でよう。きゅっと蛇口をひねって、考えることをお終いにする。

 順番を待っている一年生のためにも、いい加減に水滴をぬぐっただけでシャワーと更衣室を空ける。おつかれ、と気のない挨拶を交わしながら、壁にもたれて携帯電話を開くと、液晶の上に、ぽたり、水滴が落ちた。文字が虹色に滲む。
 メールを送ってくる相手なんて、橘か父さん、どちらかしかない。親指をすべらせて、ありきたりの動作を今日もなぞって、佐崎橘、の文字で埋まる受信箱を開く。小さく表示されたアイコン、新しい、お前からの言葉。
 先に帰る。お前んちあとで行くから。夕飯つくってくれるだろ?
 そっけないデジタルの文字も、ちゃんと橘の声で響くくらいには、いつも橘のことを考えている。だから、多少気落ちしてしまうのはしかたないだろう。
 あ、そう、先に帰るんだ。
 少し考えて、メールを打って、やっぱり消して。結局、今日は麻婆茄子、と短いそっけない言葉だけを返した。
 向かいの校舎の、4階の、角の教室を見上げる。きちんと戸締りがされているところを見ると、もう帰ってしまったあとらしい。西日が反射して、ガラスがぎらぎらと光っている。
 何だか今すぐに橘に会いたかった。
 なぁ、何か、あった?




 玄関と居間とをまっすぐにつなぐ廊下には、窓がないから、居間でも電灯をつけなければ薄暗いほどだ。いくら陽が長くなったとはいえ、そろそろ夕日もビルの向こうに隠れてしまう頃だし、何より俺の背中で床の上に落ちるはずのわずかな光を遮ってしまっている。橘が後ろ手に扉を閉めると、玄関先はひどく暗くなった。水槽に沈んだみたいだ。ブラックライトの切れた、手入れのされていない水槽。心なしか酸素も薄い。だからだろ、息苦しいんだろ、何て顔してんの、橘。橘?
 靴を脱ぎ捨てて、崩れるように飛び込んできた橘を抱き留めてやる。俺よりずいぶん細い体は、すんなりと腕の中に収まってしまう。小さい、と思った。強いのに弱くて、そんなだから、俺はお前に救われているのに、お前のことを守りたいとも思ってしまう。
 つかまえた肌はどうしてだかひやりとしていて、それから水の匂いがした。
 体温を移すみたいに橘の全部を抱きこんでしまおうとしたところを、他でもない橘に邪魔される。冷たい腕が首筋にからまって、世界がぐんと狭くなった。あれ、なぁ、橘、本当にどうした。
 訊こうとする前に唇を塞がれた。そこだけはちゃんと熱い。いつだって欲しがっている熱だ。
 キスが甘いなんて、夢見がちな文学少女のようなことは言わない。味なんてしない。ただひたすら狂おしいだけ。
 波が砂を洗うみたいに、そうして色を変えてしまうみたいに、あっさりと橘にさらわれる。やわらかく唇を重ねて、生き急ぐみたいに貪って、ときどき薄い酸素を取り込んで、そうこうしているうちに焦れたように下唇に噛みつかれた。動物みたいね、お前。そもそも人間なんて、薄っぺらい理性の一枚下に、尽きない欲望の渦巻く、動物に過ぎないのだけれど。
 薄い肩を捕まえ直して、逃がさないように引き寄せる。びくりと震えたのは、期待してるってことだろ、と都合のいい解釈を一方的に押しつけて、襟足に指先をからませた。少し乱暴なくらいに上向かせて、さっきよりも深く噛みついてやる。唇を舐めて、齧りついて。なぁ橘、こんなに好きで好きでしかたなくって、決壊しそうなくらい、きれいな感情もきたない感情も、全部お前に注いでいるのに、何でそんな顔するの。何を疑って、何を怖がっているの。そういうところも、丸ごと愛しくてしかたないわけだけれど。
「ふ、は……っ」
 濡れた唇を親指で拭って、もう一度だけ浅いキスを落とす。
「佳明」
「うん、どうした?」
「佳明が足りない」
 せつない。そう、せつない、というんだ、こういう気持ち。やわらかいのに崩せなくて、指先にからみついてくるくせに、痕も何も残らないで。お前のこと大事にしたいのに、本当はいつでも壊してしまいたいと思っている。
 動物は、俺の方だな。また橘に食らいつきながら、わずかばかり残った人間の部分で、思った。





僕のすべてを乞う君のすべて


110629 | ことり