世界は幸福ですか、いつまで幸福でいられますか。哲学者たちの言葉を平易で陳腐なものに置き換えて、かしこまった明朝体は雄弁に語る。白くてつやつやした紙は、薄っぺらで、うっかりしていたら指を切ってしまった。ちう、とひと舐め、血の味。佳明には内緒にしておこう。きっと叱られてしまうから。

 旧地学室は特別教室棟の4階、突き当たりにあって、教室の両側に窓があるのでとても明るい。両方の窓を開け放つと、風がよく通る。部活のときには半紙が飛ばないように閉め切っておかなくてはならないけれど、今はもう後片付けも済み、部員達も帰ってしまった。
 留め金を外し、勢いにまかせてサッシを滑らせると、いくらか湿ってはいるのものの、夏らしい風が吹き込んできた。陽射しに焼けた埃の匂いと、墨の匂いと、あとはよくわからないものとない交ぜになって教室にこもっていた空気が、一気に押し流されていく。いくらか気分がいい。
 こちら側の窓からは、向かいの学校のグラウンドの様子がよく見える。陽は翳りはじめていて、そろそろ夕暮れと呼んでもいいくらいだったけれど、白い砂の照り返しは眩しく、まだ目に痛いほどだった。すぅと細く目をすがめて、見慣れた体躯を探す。探すまでもなく、見つけてしまえるのだけれど。
 マネージャーらしい女子生徒が駆けより、バインダーを差し出す。身を屈めてそれを覗きこむ。先輩だか後輩だか知らないけれど、部員が駆けよってきて、同じようにバインダーを覗きこんだ。濃く黒い影が、ひとかたまりになって砂の上に落ちる。
 どくり、と鼓動が熱くなり、ついさっき傷つけたばかりの指先がじんとしびれた。また新しく血が滲んでいる。なぁ、触るなよ。何してんだよ。それは、俺のなんだから。口に含んだ指先からは、錆びて軋んだような味。誘われるように気分が悪くなる。まるで落下していく果物みたい。
 叫び出したいのに、声帯を取り去ってほしくもある。地学室は地面からずいぶん高いところにあるけれど、それでも叫べば向かいのグラウンドに届くだろう。お前の名前だったなら、なおさらのこと。きっとお前は振り返って、少し戸惑ったような素振りを見せて、必要とあればここまで走ってきてくれるんだろう。来て、すぐに来て。いや、やっぱり来ないで。




「う、ぇ」
 白い陶器の洗面台に、さぁさぁと水を流しながら、何もかもを吐き出した。朝食はとっくに消化されて、胃の中には残っていないだろうから、たぶん今流れていったのは、さっき食べたチョコレートと、5限のあとに飲んだサイダーと、弁当と。 風も通らない代わりに、陽も差さないここは、静かでひやりとしている。それなのに額やシャツの下にべたついた汗が浮いていて、ひどく気持ちが悪い。ばしゃりと水をかぶって、口の中をすすぐ。
「よし、あき」
 お前の名前はときどきうわ言になって、睦言になって、それから恨み言みたいにもなる。シロップの甘い薬みたいに、すんなりと溶けて助けてくれることもあったけれど、今はただ痛いばかりだ。呼んだらすぐ来るって、言ったくせに。

 携帯電話を取り出して、手早くメールをつくっていく頃には、もうずいぶんと気持ちは落ち着いていた。わだかまった思考はひとまず置いておいて、あとで佳明にぶつけてやればいい。
 俺以外に笑いかけるな、なんて言わない。俺の知らないところで生きるな、とも言わない。でも本当は、もっと縛りたいと思っている。佳明の全部をもらうだけじゃまだ足りない。お前に世界をあげたい、なんて。
 ばかみたいだろ。それでも俺は、お前に幸せをあげられる自信があるよ。




君のすべてを乞う僕のすべて


110627 | ことり