抱きすくめられたまま、佳明の鼓動に追いつこうとすると、踵が浮いてしまう。それでもまだ、少しばかり足らないのが腹立たしい。両手を首にからめて顔を引き寄せて、鼻の先に噛みつくみたいなキスをする。ぎこちないのは、かけ違えたボタンのようだから、くすくすと笑ってしまうのは、それを外していく指が覚束ないから。
「どこで覚えてきたんだよ、そんなこと」
 目元にキスを返される。頬の上に落とされた声は楽しげだ。
「本とか、映画とか?」
「あざといなぁ、橘」
「健気、って言えよ。お前の気を引こうとしてんだから」
 ちょっと今のは、重たかったかな、と小さじに一杯分の後悔を。二人っきりの部屋で、すっかりとくつろいでしまった体だとか気持ちだとかは、あくまでも欲深だ。あくまでも。いくら自分を戒めようとしても、佳明に全部を預けてやわらかく融けてしまった自分では、何の歯止めにもならない。
 からめた腕を解く。離される前に、放してしまおう。不用意に悲しくなってしまわないように、余白は広くとっておこう。フローリングに再び触れた踵を、くるりと返そうとしたところを、腰にゆるくまわされていた手に阻まれる。
「わ、あっ」
 ぐ、とすくい上げられるように抱きあげられて、爪先が宙に浮いた。腿の裏側に腕を入れられて、高い位置に抱き留められているので、佳明を見下ろすことになる。腹立たしいことに、体格に恵まれていて、それなりに丈夫にできている佳明は、俺をこんなふうに扱ってしまえる。自分より小さな寄る辺のないいきものを、ひょいと気まぐれにつまみあげて、手慰みにするように。
 佳明は俺を、そういうものとは思っていない。ちゃんと同じ位置に置いて、まっすぐに見ていてくれると、わかってはいるけれど。
 感情を量りにかけることができたなら、俺から佳明に注ぐ分の方がいくらか多いだろう。離れられないのも、失くしたら途方にくれるのも、俺の方で、佳明はきっと俺の不在に耐えられる。それが嫌だと素直に吐露したら、さすがに、お前は俺にうんざりしたりするんだろうか。呆れ顔で諭そうとでもするのだろうか。
「気引くだけ引いといて、どこ行こうってんだよ」
「だ、って」
 浅い色の髪に指を絡ませて、空いたもう片方の手は広い背中をなぞる。人の肌の温度が、狂おしいくらい優しい季節になった。理由を見つけてしまったら、もう自由にはしなくていいんだろう。お前を、あるいは俺を。寒いから離れて行くなよ、と言ってしまえる肌寒さが、俺には少し疎ましい。けれど、佳明の体温は気持ちが良いから、もどかしくって、やるせない。
「構われたいんならそう言えって」
 まっさらに片付けられた食卓の上に放り投げられて、背中をしたたかにぶつけた。まともに軋んだ背骨を労わってやる暇もなく、追いうちをかけるように、広い手に肩を押される。体を浮かせようと肘をついた腕を、そのままねじり上げて、わざとらしく、なあ、なんて言ってみせるお前。
「もうちょっとさ、穏やかに愛し合いたいものだね」
「穏やかに?」
「そう、穏やかに」
 嘘。嘘、だけど。これも見透かされているんだろうか。平穏なんていらない。激情をもっと。熾烈な感情を俺に見せて、俺に向けて、俺にちょうだい。
 上向いたまま、捕まえられていない方の手を伸ばして、シャツのボタンを外していく、その手間がじれったい。ひとつ、ふたつ。佳明の剥き出しになった鎖骨をちょっと確かめるみたいに触って、残りを慌ただしく外していく。袖を抜き去る暇だって、厭わしいよな。距離も隙間も、今は欲しくないどころか、一番遠ざけたいものだ。
 欲とは切り離されたところで、ただひたすらに執着されたい。だって、愛ってやつは執着だろう、と言葉に落としこんでしまうとなおいっそう寒々しかった。愛して。俺を求めて。
「よく言うよな。煽っといて」
 口を開けて、深いキスを誘う。噛みついてくる唇を受け止めて、舌をからめた。くぐもった溜め息ごと呑みこんで。どっちがどっちのものだかわからなくなるくらい、どろどろに。
「そんなつもり、なかったんだけど、なあ」
 からかうように唇を舐めて、その合間に、言う。
「戯言の上手な口だな」
 喉元に熱い舌が触れて、そのままするすると下がる。くすぐったいのとむず痒いのとを通り越して、甘ったるい悲鳴を誘う。ひゃ、と漏れた声をしっかりと耳にしたらしい佳明が声をあげて笑った。それを最後に、理性を綴じてしまう。
 息せききったような性急なやり取りは、すぐに俺を追いつめる。ゆるい坂を登りはじめるときには、身構えることができるけれど、転がり落ちて行くときにはそうはいかない。
「穏やかじゃなくて、いいじゃん。おかしい、の、好きだろ」
「好き、だけ、っど。好きなんじゃ、な、くて」
 痛い、と思った次に、熱い、と思う。うすら寒いほどだったはずなのに、どうしたことだろう。触れられて剥がされて、じわじわと熱を持っていく。今からすること、されることと、いつか考えたことには、どれだけの隔たりがあるだろう。好きになるというのが、こんなことだとは思っていなかったはずだ。少なくとも、お前に好きをもらう前には知らなかった。
「佳明、だからあっ」
 もっと何かを言いつのりたいのに、自分の声に邪魔される。あっさりと溺れてしまう自分が疎ましくもあるし、それでいいとも思う。
 耳元に流しこまれた、いい?という問いに、何もわからなくなったままで頷いた。気を散らそうにも、真っ平らな机の上で指は滑るばかりだ。うつ伏せになっているので、佳明の背中に爪を立ててやることもできない。それでもいい。我慢なんてできないし、してやるつもりもない。けものじみた、まがいものだっていい、お前が俺に執着している今を貪らないでどうする。
 高く泣きながら佳明を呼んだ。正しい場所で音節を区切れなくても、佳明はうんと頷いて、俺を押し流してくれる。背中で聞く心臓の音も、いつもより浅い呼吸も、俺を知るお前、全部俺のもの。だから嬉しい。だからやるせない。だから、足りない。もっとちょうだい。愛とか欲とか、そんなものでひとくくりにできないお前をちょうだい。俺を欲しがってくれないなら、せめて。





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(2011.09.21)
 伊庭さんにいただいたネタから、のはずがやや脱線。