自分には想像力が足りないことを、橘は十分に自覚している。頭のはたらきがさほど鈍いわけでも、物事に無関心なわけでもない。それでも、ありとあらゆるものは、橘のところへあまりにふいにやってくる。
 たぶん木切れか何かでひっかいたのだと思われる赤い線を、佳明に見せながら、ぼんやりと思う。昔から感想文の類は大の苦手だった。物語のなかで息づく人々に寄り添うことがどうしてもできなかった。そのとき、彼が、あるいは彼女が何を考えていたのか、想像してみましょうと言われると、途方に暮れることしかできなかった。彼の心情は彼にしかわからない。ひょっとすると、彼自身にもわからないかもしれない。そんなものを、どうして自分が思い描くことができるだろうか。原稿用紙に、書いては消し、また少し書き進めては消して白紙に戻した。濃い筆圧に傷つけられて、よれてしまった紙きれを見やる。紙飛行機にでもして窓から捨ててしまいたかった。
 この間佳明が読んでくれた、短い話、あれはどこだったろうと、ベッドの脇に積みあげられた文庫本の塔を崩した。誰からも疎まれたみにくい鳥。けれど、お前には、惜しんでくれる弟がいただろう。だったらなぜ。考えは、左折したあと壁に突き当たって、霧散する。なぜ、は、なぜ。考えても詮のないことを、それでも考えてしまうのはどうして。
 佳明が橘の腕に走った傷を舐め上げ、ちりとした痛みが走った。引きつれた肉のあわいをえぐるように、舌先で探る。そっと舐めるのであれば、けものらしいと言ってしまえるだけ、まだよかった。凶暴な仕草は、理性の殻にぴったりと覆われているから、手に負えない。
 痛いよ、という意味合いをこめて、くしゃりと髪をかき混ぜた。わざと音を立てて離れた唇は、かすかに弧を描いている。気づいてんのか、お前、今、笑ってるよ。どうかしてる。眉根を寄せて、橘はいくつかの言葉を呑みこんだ。どこかうっとりとしている自分に、気がついてしまったから。何だっていい。日向に出せない理由だって構わない。佳明から橘へと向けられる執着は、どんなものでも橘を震わせる。
「気に入った? それ」
 ベッドのふちに腰かける橘の後ろに回り込んで、佳明が長い体を投げ出す。ぎ、とスプリングの軋む音がした。夜の音。一人の眠りのためにつくられた道具だ。浅はかな二人を受け止めるようにはつくられていない。無機と無為。きれいに並べられた、いくつかの宵の断片。
「別に、好きなわけではないけど」
 宮沢賢治なら、銀河鉄道の夜が好きだ。あれも、救いのない話ではあるけれど、夜がきれいだから。
 同じ、夜の、全天の、生命を失う話。
「これってさぁ……ハッピーエンドではないよな?」
「まあ、完璧な、もっともらしいハッピーエンドとは言えないだろうけど」
 俺は好きだな、と佳明は言いながら、橘をシーツの上に引き倒す。橘は大人しくその腕の中に潜り込みながら、何か言いつのろうとして、結局は口をつぐんだ。
「今は何読んでんの」
 肩に頭を預けたままで、いくらか経ってからようやくそう言った。言いたいと思ったこととは別のことだったけれど、それでも構わなかった。
「アクロイド殺し」
「面白いの?」
「まだわかんないな。でもこれ、推理小説だから、自分で読めよ。橘、もう寝る? 何読もうか」
「今日は、いいよ」
 いくら考えても、よだかが星になった理由がわからない。どうして、がこだまする。疎まれる生に疲れ果てたのだろうか。鷹に無理を言われて、もう耐えきれなくなったのだろうか。なぜ、は、なぜ。
 物語の行く末を想像することは苦手だ。登場人物の心情に寄り添うことも、うまくできない。人の気持ちや、その人が何を欲しているか、何を必要としているかを推し量ることも、とても得意だとは言えない。
 佳明のシャツの胸元を掴み、額を寄せる。拒絶されることがないとわかりきっている安堵に、ずぶずぶと浸かったまま、橘は距離のないところにいる恋人について思いを巡らせた。好き、はもう数え切れないくらい分厚く塗り重ねられている。いくらでももらえるものだと信じてしまいたい自分がいて、疑った方がいいかもしれないよとうつむく自分がいる。佳明は何を欲しがっているのだろう。どうすれば、いつまでもお前のそばにいることができるだろう。
「佳明のこと、聞きたい」
 襟足に絡んだ手のひらの感触になだめられて、橘は目蓋を落とした。お前を失くさない方法を、いつでも探している。





あけないで


(2011.09.21)