アスファルトの隙間から生えた小さな花の色水を、水に溶かして薄めたような、淡い色の夕暮れが降りてきている。手元が暗い、と思って顔をあげたときには、部屋のなかはとっぷりと暗がりに沈み、窓枠が薄ぼんやりとした宵を四角く切り取っていた。角と角のはっきりとした、実直な紫。
 ノートを閉じ、筆箱にペンを戻しながら、橘に声をかける。昨日ちょっと夜更かししちゃって、と部屋にきて早々横になった橘は、眠ってもいいかと訊ねることをしなかったし、俺は俺でそれを咎めようとも思わなかった。すぐに寝息をたてはじめた恋人の、くつろげられた襟元から覗く喉や、投げ出された手の少し伸びた爪や、すんなりとした身体の線を見やり、いとしいな、と思う。
 いとしい。もう一度、反芻する。
 自分の部屋に他人がいるという感覚は、今ではもうない。橘は、橘。友人と呼べば苦笑を誘ってしまうほど、いき過ぎた感情を持ち合わせている俺たちだけれど。

 橘の母親も留守がちではあるけれど、うちほどではない。だからどうしても気安さから、橘を招くことの方が多かった。招くという言い方もおかしな話だ。帰る、と言ってしまう方がずっと馴染む。
 毎日部活のある俺の方が帰りは遅いから、橘が俺を待ってくれる。部活があれば部活に出て、そうでない日でも、部室で本を読んだり課題を片付けたりしているらしかった。聞いた話だ。橘のすべての時間を、俺が手にしているわけではない。
 本屋に行くから駅で待ってる、とメールがくることもあって、今日はそうだった。
 最寄駅よりずっと大きな駅の構内はタイル張りの床が広々としていて、その上を名前のない足たちが滑るように横切っていく。駅では、人は誰でも記号のようになって、どこかへ行こうとする。どこかへ。そう遠くはないところへ。平穏とは程遠いざわめきが過ぎる。手をひいて、知らない行き先を探すみたいに、愛するということはときどき不安げな足どりでさ迷ってしまう。
 橘は壁に背を向けて、手元の本に目を落としていた。声をかけずに隣に立って、影をつくる。目線の高さが違うことを、好ましく思っているのだと言ったら、橘は怒るだろうか。口づけるために身を屈めて、橘を覆うときの、あの感覚。執着心を満たす足しになってくれる、安らかさとは程遠い感情。
「お疲れ」
「ほんと疲れた」
「ばかじゃないとやってらんないよな、長距離なんて。つくづく尊敬する」
「貶してるだろ」
 さあ、帰ろう、と橘の肩に軽く触れる。カバーのかけられた文庫本を、鞄のなかに仕舞いながら、今日さぁ、と橘は口を開いた。とりとめのない。本当にとりとめのない、いろいろなこと。古文の先生がなかなか授業にやってこなかったこと、予習の範囲を間違えていたので助かったこと。俺は、電子辞書の使い勝手の悪さと、失くしてしまったシャープペンシルの書き心地が恋しいことを話した。
「それってもしかして、青いやつ? 消しゴムのついてない」
 ホームへの階段を降りながら、橘は言う。
「うん、濃い青。レゴみたいな色の」
「ごめん、俺持ってる。うちにあるから、明日持ってく」
「あれ、今日泊まってかないんだ?」
「あ、そっか。どうしようかな……」
 俺のそばにいないときの橘を、俺は知らないけれど、遠くから眺めているより、隣にいて話をするときの方が、ずっとかわいらしく感じる。俺の言葉ひとつひとつに笑ったり怒ったりする橘。手にしたコップのなかで水がざぱざぱと揺れるように、翻弄されてくれる橘。
 いくら全部をくれても、橘の全部を俺がどうこうできるわけではないとわかっている。二人は全く別個の人間なのだから。ひとつに融けて、継ぎ目も失ってしまいたいと思うことがある。橘を抱きしめたまま、考えることも何もかも手放せたら、それはそれで素敵な結末だと言えなくもないだろうかと。結末。終わり。お終い。エンドロールのない物語だから、ただ寸断されるしかない。
 これはまったく自然なことだと思うのだけれど、橘は、俺のせいで怯えたり泣いたりもする。それでいてすがるのも助けを求めるのも俺なのだから、かわいくてしかたがない。

 いとしい恋人の頬に触れる。それだけ聞くと、ありふれた幸福みたいだ。俺は男だし、橘もそうだ。年頃の少年にしてはいくらか線がやわらかいにしても、浮いた筋や、手のひらの骨ばったところは、男のものだ。
 無為の満ちる、あどけない寝顔を見下ろして、ふっくらとした肌に指先をはわせた。耳のふちをさ迷うように撫でたあと、薄い肉の下に顎の骨があるのを確かめ、頬へと戻る。淡い光が部屋のなかにまだ居座っていて、産毛がそれを弾くので、肌が青ざめて見える。小さな鼻、落とされた両方の目蓋。そのあわいを埋めるように生えた睫毛。
 倫理や摂理を無視して、好き、を盾にしている俺は卑しいだろうか。うすら寒い欲に濡れた手で橘に触れる。押しつけではないと、存分に知っているつもりではあるけれど。ときどき橘は、せつない声で、吐息をまとわりつかせて俺を呼ぶから。好き、ときれぎれに耳元で繰り返されると、両手を縫いとめてしまいたい衝動に襲われる。目も閉じさせて、口を開くのだって俺を呼ぶときだけでいい。好きさえいらない。人魚のように、青銅の像のように、どこへも行かなければいい。俺だけ、お前だけ。
 いくらでも凶暴になれそうだった。無垢でもなんでもないはずの寝姿を見ているだけで、今俺の腕の中にいないお前が憎らしい。
 胸がゆるやかに上下している。正しい呼吸が繰り返されている。きっと夢は見ていないだろう。深く眠っているのだろう。
 そろそろ夕飯をつくりに台所へ行くつもりだった。目が覚めたときに俺がいないと、橘は不安がって泣くことさえあるから、いつもなら起こして連れて行くのだけれど、今日は起こさないことにした。このまま灯りを点けないでおけば、当分眠ったままでいるはずだ。

 シャーペンのこと、黙っておけばよかった。そうすればこんな小細工じみたこと、しないで済んだのに。
 うっすらと開かれた唇に、唇で触れる。眠りの妨げにはならない、静かなキス。起きるなよ。できれば夜更けまで。




くちばしからぬるい毒を


(2011.09.17)