まだ眠らないと言い張る橘を隣に置いて、そのときめくっている本を読んで聞かせてやるのが、近頃の佳明の日課になっていた。ただ、橘のやわらかい耳、軟骨の感触の上に、物語は残らないらしい。佳明の声をのせておきたいだけ。自分を佳明の中心に近いところにねじ込ませたいだけ。それに近しいことを橘は言った。暗がりに目線を放ることはやめて、ゆったりを目を閉じ、うっすらとした笑みのようなものを浮かべさえして、口にした。
「佳明の声、気持ちがいいから。ずっと聞いてたくなる」
 幸せなんだ、と付け加えて、照れ隠しのように佳明の肩に指先をはわせた。何もかもがぬるくとろけた夕べだった。
「何だっていいの」
「うん」
「じゃあお前の教科書読んでやるよ。物理と化学どっちにする?」
「意地悪いなぁ」
「うそうそ。ほらこいよ」
 無意識に潜り込むことは息をするようで、意識を占めることは平穏な水を泳ぐよう。つくりものの誰かの息づかいに耳を澄ませたいわけではないから、佳明が横着して台詞を飛ばそうが、おざなりに言葉を切り貼りしようが、橘は何も言わない。まれなことではあるけれど、不平があれば、肩口にぐいぐいと頭をこすりつけることで不満を申し立てた。
 わざと回りくどい仕草をしてみせる橘に、佳明は苦笑をもらした。そのささやかさを愛しいと思う度、今日の続きが明日であったらいいのにと、思わないではいられない。流れに巻き込まれ、転がり進んでいく生だ。複雑な捩れのなかに、一本の糸を見つけたい。
 たった一人のための朗読会で、橘に好みらしいものがあるとすれば、一人称のものよりは、三人称のもの、不透明なものよりは、わかりやすく透き通るものを喜んだ。彼、あるいは彼女の、見知らぬ生。俯瞰する悲劇、喜劇、恋の行方を、つれづれと追う。そうこうしているうちに、どちらからともなく眠りに沈みこんでいく。
 活字を追う目がおぼつかなくなり、誰それの憂鬱を読みあげていく佳明の声から抑揚がなくなっていく。熟れた声。寝つきも寝起きもわりにいい佳明の声がぬかるむのは珍しい。舌がまわらなくなっていることを自覚していて、やめようかと言わないのは、癖のようなものだった。誰かを甘やかすのが、こんなにもどろどろと心地よいものだとは知らなかった。

 今晩佳明が選んだのは、短い童話だった。みにくい鳥の話。地面と、全天と、生命の話。
「もうよだかは落ちているのか、のぼっているのか、さかさになっているのか、上を向いているのかも、わかりませんでした。ただこころもちはやすらかに……ん、どうした」
「これさぁ……ううん、何でもない」
 続き、と。浮かせた頭をシーツの上に落として言う。
 近頃、朝夕は驚くほど冷え込む。ブランケットを引き上げて、肩を覆った。
 小さく並んだ活字を追いかけて、殻でも与えるように読みあげていく佳明の声には、眠気がからまり、次第にささやきのようになっていく。はっきりと動かなくなってきた頭で、佳明はよだかについて、止まり木のない答えをふわりと羽ばたかせる。黒い空に突き刺さるようにのぼっていく、小さな鳥。あわれだろうか、かわいそうだろうか。星になれば、ものを思うことはなくなるのだろうか。
 物語は終わる。生命の終わり。億年のまたたきのはじまり。
「それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきました」
 そして自分のからだがいま燐の火のような青い美しい光になって、しずかに燃えているのを見ました。

 かすかな寝息が聞こえる。浸みるように夜は秋を覆う。眠りは星を追い落として、一人のために幕を引く。




宵のオデオン、明星を散らせ


(2011.09.12)
 宮沢賢治『よだかの星』