!! 橘くんと、お母さんの千暁さん。




 手にした重さは例えようのないほどにはかなくて、甘過ぎる水を飲み干したあとのような気持ちになる。紙よりもやわらかくしなり、砂糖菓子より淡い色をしていて、それから、やはり、この軽さ。とろみのある懐かしさがやってくるのは、触れているのが優しいものだからだろうか。それとも、思い返すものが優しいからだろうか。
 手を引かれていたかどうかまでは、覚えていない。初夏だったようにも思うし、秋のはじまりだったような気もする。バターと小麦粉の甘い匂いが、髪や襟足にまでからむようだった。いろいろな幸福が、狭い道の上にわだかまって、今にも凝ってしまいそうだった。じとりと重たいざわめきが、遠くに近くに、淀むようだった。
 お祭りの夜はあんなにもぎらぎらとあちこち眩しいのに、思い返すと色濃いのはどうしても暗闇の方だ。あの深い夜の隅には、何かが棲みついているような気がして、恐ろしかった。子供だった頃より、今の方がまだずっとお祭りが好きだと言えるかもしれない。薄い膜のような浮ついた空気、油の匂いのする煙。歓声と、音楽と、羽目を外し過ぎた大人の騒がしい笑い声。そのどれも、日々の裏側に寄り添っているものたちだから、いとしいと思う。慈しまれるべきものだ、そう思って見ることができる今だって、俺はまだどうしようもなく子供なのだけれど。
 うっすらと淡いすみれ色をした、花びらのような紙切れ。本棚の奥から出てきたプラスチックのケースを、懐かしさに触れられて開けてみると、屋台の景品だった紙石鹸はまだ湿気ていなかった。一枚手のひらに載せてみる。淡い匂い。つんと澄ましたよそよそしさは、むしろ好ましい。
 思いつきは、幸福の残滓のようで、ちくりと肌をさす。それでいい。痛いのがいい。あまりにやわらかいと、期待してしまうから。
 やはり、両親と手をつなぐことはしていなかったと思う。大人に手のひらを握られることに、安心感を覚える子供ではなかったから。他人の汗や生肌の感触が、昔から不快だった。それを嫌悪と呼ぶのだと、知らなかっただけ。
 自分と他人を区別して、触れたくないだなんて、なんて思いあがったことだろう。いくらかましになったけれど、今でも他人の手作りの菓子などは口にする気になれないし、ペットボトルの回し飲みなんてとてもできない。他人の肌に触れたくないから、握手だって避けたいし、人ごみで肩と肩がぶつかるのさえ正直なところ気持ち悪いと思っている。
 一日に手を洗う回数も、そうだ、きっと人よりいくらか多いと思う。それを悪いことだとは思わないけれど、難儀なことだと感じてはいる。
 流れる水に手のひらをさらし、濡れたところに紙石鹸を載せる。水気を吸ってくしゅりと融けていく、淡さ、頼りなさ。両手をこすりあわせるとうっすらと泡が立った。空気を含ませてもふくらまない、べたついた泡だ。香りばかりが主張する。
「珍しいもの使ってるのね」
「あ、うん。本棚から出てきて」
 髪を解きながら洗面所に母さんが入ってくる。帰ってきたことに気がつかないなんて、ずいぶんぼうっとしていたらしい。
「使う?」
 水に浸すとあっさりと泡は流れていく。拭うついでに、抜き取ったタオルを洗濯機に放り込んだ。
「ちょうだい。ラベンダー?」
「わかんない。甘ったるい」
 母さんが紙石鹸で手を洗う。鼻腔にからむような匂いがいっそう濃くなった。あんまり泡立たないのね、おもちゃみたい。そう言って苦笑する母さんと、洗面所の白さと、薄い泡と。見たことがあるような気がしてくる。泡立たないね、と苦笑したのは母さんで、それに父さんはどんな顔をして見せただろうか。
「それ、お祭りのくじ引きであたったんだよ」
「覚えてるかも。七夕じゃない?」
「それは、忘れちゃったんだけど」
 言われれば、そうだったような気がしてくる。幼い自分の記憶より、母さんが覚えていることの方がずっと頼りになる。
 きっと、歩くと肌が汗ばむような夜だっただろう。肉やキャベツを焼く、熱い煙がうっとうしいほどだったかもしれない。りんご飴のつやつやとした赤、水の中の小さな金魚。細い溝を流れる川のような人々。
 とるにたらないもの、次の瞬間には忘れてしまっていそうなものたちを、少し、思い出す。幸せな家族の模範のように、手をつなぐことはしていなかったけど、歩く俺の後ろには母さんがいて、その隣には父さんがいた。橘、と俺を呼ぶ声と、背中に注がれる眼差しとがあった。俺はたぶんいくらかはしゃいでいて、いつもより多く笑った。ぽかりと毎日の真ん中に穴が開いたような、そういう夜だ。
 母さんは浴衣を着ていたような気がする。でもそんな手のかかることをするだろうか。母さんはいつもくるくると忙しい人だから。いつだろう。びっくりするほど前の出来事なのかもしれない。ばちばちと虫のぶつかる灯りの下、三角のくじを引いて、さすがに何等だったかまでは覚えていないけれど、紙石鹸を景品に選んだ。あの夜。胸の奥でずくりと重くなる夜。父さんが一緒だったいつかの日のこと。
 脳裏にひらめいた光景を、向こう側に押しやる。金魚の泳ぐ水槽の前にしゃがみこんだ父さんと、その背中越しに覗きこんでいた俺。一心に見つめていた母さん。疑いようもなく、その光景には幸福という主張し過ぎるレッテルを張ることができる。
「……やっぱり、覚えてない」
 そういうことにしておいて。




ほろほろと消えた


(2011.09.08)