何も考えないわけではないよ。うず高く積み上がってしまった日々。水の底からごぼごぼと溢れてくる気泡みたいなものを、あっさりと崩してしまう瞬間について、あれこれと考えてみる。呆然として、きっと後悔して、そのときばかりはきっとごめんということも許されないからまた悔やんで。一人ではいられないから、仰向けに倒れて沈んでしまおう。泥でも水でもいい。
 できれば、病んでしまっていたい。救いようのないくらい傷んでしまいたい。

 身体中に残った気だるい違和感が、今というものの上澄みなら、それだって美しいものだと思う。何かしらの、幸福の、ついでだっていい。
 失いたくない。だから本当は、もっと溺れてほしいと思っている。佳明を繋ぎとめておく方法を、どうしても俺はもたない。何にもなれないで、俺は俺のまま。だから、ただ愛するしかない。それでも、それを理由に佳明がずっと一緒にいてくれるなら、それはもう取り返しのつかない幸福だとも思う。 手のひらをぎゅうと握りこむ。愛して。
 鳴りやまない電話のように、ベクトルは大きくなることなく、続いていくだけのはずなのに。愛して、が反響する。こだま。エコー。そして親和する。
 世界の縮図を見たことはない。それは大きくて測り知れない、あてどない。自分とは無関係な諸々、自分には無関心な様々。次々開いていく扉から逃げ出すように、小さな部屋を探して飛び込む。安堵を貪って膨らみ過ぎた自己は、もうそこから出られない。四隅、白い壁、窓はない。ぐるりと見渡すそれがすべてで、はじまりでおしまい。 自分の名前を忘れてしまえたら、いくらか平穏になれるだろうか。

 背後で気配が動く。佳明がまだ眠っていないのは知っていた。眠った振りをやめて、こそりと咳でも漏らせば、きっと何か言葉をくれるだろう。不用意な優しさで、考え過ぎた欲で。
 額をくっつけてうっとりと言葉をつなげていくのは好きだ。今日のこと明日のこと、何でもよかった。俺の言葉を佳明が引き継いで、笑ってくれたら、俺はもうそれだけでせつない。胃の外側、細い血管のすべての隙間がきゅうと鳴いて、内側からねじれてしまいそう。

 けれど今は背を向けて、ぞろりと眠ってしまった素振り。

 小さく抱き込まれて、うなじにひとつ吐息を感じる。佳明、と呼んでしまいそうになるのを、きつく目をつむって耐えた。
 いつまでもわがままで、どうしても欲深い。お前にいつか、いらないと言われてしまうんじゃないかと思って、怖いよ。こうしてお前が、何かかけがえのないものみたいに俺を扱うたび、両手を投げ出して懺悔したくなる。
 するりとした手が好き、お前が俺に触れる手つきが好き。他の誰にもこんなふうに扱われたことはないから、比べようもないし、佳明以外は誰にだってこんなこと許すつもりはない。そもそも、誰が俺に触れようとするだろう。
 佳明じゃないといやだ、好き、なんだよ。
 すべての挙動に好きを挟みこんで、お前を欲したら、お前は俺の深さを測ってくれるだろうか。もう愛や恋や、そんなかわいらしいものではなくなってしまっているこの淀み。

 つんと喉の奥が痛むのに、裏腹に呼吸が平穏なものになっていくのを感じる。まだ眠ってしまいたくないのに。
 ごめん、と胸の内で思ってみる。許されることを願ったり、許されないことを願ったりしながら、ゆるやかに罪をつくっていく。ごめん、好きでごめん、好きでいてくれるお前と、いろいろなものに、ごめんなさい。




泡沫/浮かぶ泥


(2011.08.22)
 伊庭さんの『耄碌/沈め石』から。抱き合って眠っても違う夢を見る。