深い水の匂いがしている。雨が降りやまないせいで、心が湿気て重たくて、はねる前髪を厭わしく思うように、何もかもがわずらわしい。絡みつく雨音が耳の奥でうるさい。
 水もらうよ、と言うと、冷蔵庫にソーダがあると返された。飲んでいいの。いいよ。
 俯いた頬に落ちる影は暗く、寝起きの声は普段よりいくらかぞんざいだ。いつも以上に深く眠ったあとの休日の朝の、少しぎこちない感じ、落とし所を見つけられない感じが、俺は嫌いではない。

 台所の椅子の上に、上着がひっかけられているのに気がついた。昨日の夜にはなかった深い色の背広を見て、心臓が嫌な具合に跳ねた。帰って、きてたんだ。流しに置かれたコップを見つけ、試しに触れてみて、まだ暖かいことにひとまず安堵する。ついさっき帰ってきたばかりなんだろう。 知られてはいけない。
 俺はあの人が好きだ。佳明の父さんだから、というのもある。鷹揚に笑うところや、懐広く他人を許す無関心さが、よく似ているから。けれどそれだけではなくて、たぶん、佳明への接し方が好きなんだろう。信頼と寛容と、それから愛情。水と光のある場所に、優しい影をひとつ加えてやるような。手を貸すのでも背中を押すのでもない無心の愛情は尽きなくて、そのあり方が、いいな、と思う。
 佳明を手放すつもりなんてさらさらないけれど、あのいい人が傷つくと思うとほんの少しだけ心が咎める。許してほしいだとか怒られたくないだとか、そういうのではなくて、なんてままならないことなんだろう、と溜め息を吐きたくなるだけ。

 ペットボトルをするりと抜き取って、部屋に戻る。佳明はぱらぱらと文庫本のページをめくっていた。半分開いたカーテンの隙間からぼたりと光が落ちて、雨雲の重さに暗く塗りたてられた部屋でも、シーツの上だけがわずかばかり明るいのだ。
 顔をあげた佳明が、薄く唇を開いた。そのまま、うっすらと笑う。たぶん、たちばな、と俺の名前を呼ぼうとして、何でかやめてしまったんだろう。呼んでくれたらよかったのに。どれだけのものを受け取っても、それでもまだお前が足りない。酸素を求めて喘ぐみたい。アクリルの向こうで偽物の海を泳いでいた、濁った瞳の鮫。止まったら死んでしまう。止まらなくても、死んでしまいそうだって、いつも思っているけれど。
 知ってるか。そういうことをしたあとの、深く落ちて溶けていくような完璧な眠りのことを、小さな死というらしい。

 佳明が手にしていた本は栞も挟まずに放り投げられた。何となく眺めていただけで、内容について訊ねても、きっとろくな応えは返ってこないのだろう。悲劇の、誕生。何が悲劇で何が喜劇だ。生きている、というただそれだけのことが、ときどきこんなにも胸をえぐるのに。
 おいで、とからめられた腕はほどいて、隣に座る。
「お父さん帰ってきてるから」
「そう」
 頬に添えられた手を捕まえる。絡んだ指は思ったよりもずっと冷たくて、少し驚いた。
「だから帰ってきてんだって」
「寝てるんだろ」
「わかんないじゃん」
「父さん俺の部屋には入んないよ」
「だからって、これは、ない」
 片手だけ伸ばして鍵を外し、窓を開けると、辺りはさっきよりもいっそううるさくなった。夜の名残を、雨音がすべて押し流す。耳元で聞いていた佳明の呼吸とか、血管に沿ってばらまかれた痛みだとか、今は冷たいこの指が昨日はたまらなく熱かったこととか、全部。
 知られてはいけないことが、とてもたくさんある。
「こんなとこ見たらお前の父さん卒倒しちゃうよ」
「そうかな」
「そうだろ。普通に考えろよ。いくらお前の父さんが心広くても、息子の恋人が男だったらへこむだろ。半端なくショックだろ」
「それはそうだけど」
「けど、じゃねえよ」
 だから、だめなの、わかった? いくらお前が俺に触りたくても、いくら俺がお前に触られたくても、湿っぽい空気にさらされた肌がみるみる冷えていって、どこまでも空っぽになってしまいそうなのを、お前にどうにかしてほしくてたまらなくても。




アドレサンスは夜が明けてから


110626 | ことり