どうしたって同一になれない。重ねた唇のあわいから、爪の根元に浮かぶ月から、お前がいつも俺を呼ぶようで。ひとつ、名前を呼ばれるたびに、くっきりとした線が引かれる。名前は、俺とお前を区別する記号だ。佳明に呼ばれると、嬉しいけれど、近頃はどうも泣きたくなってしまう。
 ひとつになりたい、と言ったのは俺だったろうか、お前だったろうか。お前だったとしたら、それはお前を鏡にして、俺を押しつけただけだったのかもしれない。ごめん、弱くて。いつも、弱くて。
「強くなりたい、なぁ」
 すがりついて言うことではないよな、と自嘲しながらも、とても顔を見て言えやしないので、もっとぎゅうっと頬を寄せる。それは甘えじゃないの、と言うことなく、抱いた腕の力を強めてくれる佳明が愛しい。
 太陽にくすんだ匂い。ちぎって、日向から日陰に放り込んで、少しした後の草木のような匂いがする。いきものの匂いで、太い茎をもつ植物の匂いで、佳明は強いな、と思う。
「なってどうすんの」
「佳明を守りたい」
「泣きそうな顔でそんなこと言うなよ」
 さっきからずっとうつむいたままでいるのに、何でそんなことが言えるんだよ。
 俺はよく泣いてしまうけれど、佳明が泣いているところはあまり見たことがない。埃が目に入っただとか、そういう涙を数に入れなければ、今まで一度だって見たことがないかもしれない。どんなふうにその頬を濡らすんだろう。たぶんきれいだろうな、と思う。俺が理由だったら、嬉しいかもしれない。
「お前を重たくしたいけど、邪魔になるのは嫌なんだよ。愛されてばっかだろ、俺」
「ばか言ってんな。橘が俺の目の前にいるって、それだけで、愛だよ」
「……佳明は優しい」
「責められてるみたいだ」
「うん……。そうだろ、理不尽だろ、俺。いつでもお前をあてにしてよっかかって、お前なしじゃいられないくせに、きついこと言っちゃうんだ。それでも放っておこうってならないのは、お前の優しさだろ」
「だって橘が好きだから、どんなお前でもお前がいいから。めいっぱい愛したい、橘が欲しがるなら、それが橘のためにならなくても、何だってしてやりたい」
 悲鳴と安堵を一呼吸のうちに。
 描かれる風景は、しかたなく静かなものになる。
「愛して、佳明」
「こっち見て言えよ」
「後ろめたくてできない」
 腕を捕まられて身体を引き離された。やめろ、いやだ、と指先が宙をかく。他でもないお前が、お前から俺を離そうとするなよ。
「よしあ、」
「橘」
 耳の後ろにそれぞれ両手を添えられて、ぐっと顔を持ち上げられる。影の中にあってきらりと丸い目が、俺を見据えていた。ひたり、あるいは、しとり。その目に晒されたら、俺、もうだめなんだよ。
「佳明」
 その身体をあわくかたちづくる細胞の、ひとつひとつをなぞりたい。できることなら舌の上に載せてみたいとも思う。行く末を、余罪を、転がして、弄んだ気になればいい。
 お前を知りたい。お前もどうか、俺を知って。
「愛して」
「愛してるよ、橘」
 お前に名前を呼ばれることが、惜しみない愛をもらえることが、最尤の幸福だと思う。でも俺は、お前を愛したい。どうしようもなく愛しているけれど、もっと、お前が俺に溶けるくらい。




彼を愛するためのティルナノーグ


(2011.08.08)