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伊庭さんのリ シリーズ、さよならのあと、のつもり。バッドエンドです。 一昨日の出来事を抱きしめて眠った次の日、俺に許されるのは三日前の記憶を手にすることで、その次の日、また次の日と繰り返していくたび、残される思い出はどんどん遠くなった。何からわからなくなっていくんだろう。もうすでに、耳に残っているのは、橘ではなくて佐崎と俺を呼ぶ佳明の声だ。俺を、視界を占める最後にしない佳明。突き放すための両手を用意することさえしてくれない佳明。 佳明は何にも執着しない。ひらひら、翅の生えたいきものみたいに、次から次。俺がそのひとつにされてしまうかもしれないなんて、考えたことはなかった、ただの一度も。愛を疑うな、といつかお前は言った。執着は愛ではないの。俺を縛って、けして放さない、そういうことではなかったの。 昔のニュースをテレビが流すのを、知らないことだ、と思って見るように。いつか、全部は四角い枠のなか。覚えていることとそれ以外にわけられて、錆びていくのか。だったら汚れてしまう前に、忘れた方がいいのかもしれない。そんなこととてもできやしないけれど。 うちの台所は対面式でよかったな、とつくづく思う。食卓について、ぐにゅぐにゅといつまでも口の中でやわらかいマカロニを噛みながら、今夕飯を食べている、と自分に言い聞かせた。ソースの赤、血の赤。そこにあるのはどんな差異だ。 佳明の家の台所は、流しに向かうと食卓に背を向ける間取りになっていたから、俺が見ているのはいつも佳明の背中だった。できた、と振り向いた佳明と一緒に食卓について、つくる人の目の前でする食事はとても楽しい。 きれいに並べられたボトルの向こうに、水道の蛇口が鈍く光る。こういう間取りで本当によかった。もう思い出になってしまったものと、重ねずに済む。 佳明のつくるときどきいい加減な食事がとても好きだった。好き、だった。もう口にすることはないだろうから、過去形で語るしかない。楽だしうまいんだよ、と焼き肉のたれで味をつけた野菜炒め。傷みかけた食材をとにかく混ぜてしまった彩の偏ったチャーハン。白身が細くゆるりと広がる、甘じょっぱい卵焼き。お前の卵焼き、好きだったよ。またつくって、って、もう言えない。 するすると思い出がすべって、次々に噛み砕かれていってしまう。もっと硬くなればいいのに。歯が立たないほど、喉の奥に運べないほど、酸で溶けないほど。お前がくれたものはどれも優しくてやわらかい。だから、もうしばらくもしないうちに、わからなくなってしまうだろう。俺の中に溶けていくんだったらいいのに、どこかへ流れていくんだよ。 もうお前が注いでくれない、言葉とか愛とか、今どれほど俺の中に残っているだろう。 ぞろりと蛇が身体をしならせる。一度は与えられたものを、奪われたいきもの。知っているから憎悪する。初めから、手足があって触れる地面を知らなければ、楽園は楽園のまま。 慌てて口の中の食べ物を飲みこんだ。水を口に含んで、ごくりと嚥下。えづいてしまいそうになるのを、両手で口元を塞いで耐えた。 夕飯のあと、皿を洗っている最中にどうにもならなくなって、せっかく食べたものを全部吐き出してしまった。流れていく他人の生命。 恋を失うなんてよくある話、そんなことで俺はだめにはならない。けれど、お前を失ったら、それは全部を失くすことだから、当たり前に死んでしまいたいよ。 リ プレイスと他人事 (2011.08.07) バッドエンドを塗り重ねる。 |