!! 橘くんが喘いでいるので、苦手な方はご遠慮ください。




 光は水のように注ぐ。開けた扉の隙間から、溜まった光が廊下に溢れ出すようだった。剥き出しの爪が濡れる。ゆうらりと服の裾がゆらぐ。
 魚でもいればいいのに。小さくて、鱗は赤か金色で、尾びれは小さいといい。目の奥にすばやく焼きつく残像のように、するどく泳ぐ魚だといい。
「寝てんの?」
「……起きてる」
 まぶしい明りから逃げ出すみたいに、ベッドの上で背中を丸めていた橘が、億劫そうに寝返りをうつ。その拍子に、そらした首にイヤホンのコードが巻きついた。からみつく線と流れる音楽の、何がお前をつくるの、生かすの。音ひとつ、拍ひとつ。それで? それから?
 あ、こういうの、何て言うんだろうな。浮いた喉仏に指をはわせてみたい。そのまますべらせて、鎖骨をなぞって、肩の輪郭をたどりたい。劣情、とでも言えばいいんだろうか。俺の名前を何度でも呼ばせて、その声をとろかしたい。

 やすらぎが寝転がるシーツの、空いたところに腰かけた。ここには、予定されたものは何も置かれていない。あらかじめなんてものはどこにも見当たらない。だから穏やかだ。だからやすらかだ。寂し過ぎる夜のように。
 ひとりでに歩き始めた情欲に、素直に手を引かれてみる。
 イヤホンを外し、コードを引っ張って、プレーヤーを脇に放り投げた。電源を切ったかどうかまでは確かめなかったけれど、あれはたぶん俺のだったから、特に文句は言われないだろう。
「……バジル?」
 頬に添わせた俺の手のひらを捕まえ、橘が鼻先を押しつけてくる。次に唇が触れる。
 佳明の手が好きなんだよ、と言われたことがある。手だけ、と俺は聞き返した。橘はおかしなことを聞いたような顔をして、声をたてて笑った。全部、全部が好きだよ、誰より好きだよ。耳から入りこむ声は甘くてひんやりしていた。砂糖を溶かした牛乳のようだった。
「うん。サラダのソース。ちょっと頑張ってみました」
「嫌いじゃないな、この匂い」
「素直に好きだって言えば」
「好き」
 電気、消せばよかったな。上向いた顔の横に手をついて、橘を影のなかに入れてしまう。寝ていないと言っていたけれど、少しうとうとしていたんだろう。白目のふちが赤くなって、ぼんやりと潤んでいる。
「もっかい言って」
「好き」
「もう一度」
「好き。佳明が好き」
 光は水だったら、影は陸だろうか。お前をすくい上げて、砂の上に投げ出して、どこへも逃げられないようにしようか。
 前髪をすくって、額に唇を落とす。続けて目蓋にも。それから、確かめるように目を合わせながら、襟元に手をかけた。
「橘、腹減ってる? 夕飯はできてんだけどさ」
「火止めてきた? ちゃんと冷蔵庫に仕舞った?」
「完璧」
「じゃあいいよ。食べる前にするの、嫌いじゃないんだ」



 舌を寄せて、皮膚の薄いところばかりを選んで舐める。首筋、腕の内側、わき腹。さんざん好きにして、もううっすらと熱ののった肌は、触れればしとりとしているし、舌につたわる味は塩気を含んでいる。食事のとき、塩分のしびれを幸福だと思うように、わかりやすい刺激はあっという間に理性を焼いていく。家中の電気を消していくときのようだ。声が感触が、スイッチをひとつずつ落としていく。そのうち、どうにもならなくなって、ばちりとブレーカーごと落としてしまいたくなる。
 すがるように伸ばしてきた両手を掴んで、首筋にからめてやる。細められた目の端からつうっと水が伝って、まっさらな肌に線をひいた。追いかけるように舌をはわせる。こめかみの辺りに音をたててキスをすると、ん、と喉が鳴った。かわいいね、お前、本当にかわいい。
「橘、触っていい?」
「も、触って、る……」
「こっち。いい?」
「っ。いちいち、聞くなよ……!」
「言って」
 指先を、肋骨の終わり、やわらかいところに置く。圧すでもなく、爪を立てるわけでもなく。ゆるやかに体温だけを移す。それさえ伝わっていないのかもしれない。俺の手はいつもつめたいらしいから。俺は橘の手しか知らないので、実際どうなのかは知りようがない。橘の手はいつも熱い。指先も手のひらも、力いっぱい生命の熱が詰まっていて、俺はそれが愛しい。
「いい、からっ。触って……」
 意地を張りたがるわりに、我慢弱いからどうしようもない。橘ばかりを責められた話ではないけれど。俺だって我慢強いとはとても言えない。ただ、焦れてぐずぐずと壊れていく橘を見たくて、今だって頭ががんがんと痛むくらいの熱をなだめすかして耐えている。本当だったら、すぐにでも全部を暴いて揺さぶってやりたいくらい、余裕を失くしているのに。
 昨日もしたんだったか。触りたいと思ったときに橘に触って、橘もそれをあっさりと許してくれるものだから、いつも雪崩れこむように、気違いじみたことを繰り返している。昨晩使って放ったままになっていたチューブをシーツの隙間から見つけ出して、手っ取り早く潤いをからめる。舐めて濡らしてもらうのも好きだけれど、たぶん今日はそうしてもらうほど橘がもたない。
「ふ、あっ」
 自分でも触らないような場所に手を伸ばすと、橘はあっさりと声をあげる。そのあとで怯えたように下唇を噛んだ。まるで、自分の声に驚いたみたいに。
 浮いた肩を空いた手で押さえつけて、しつこく橘を追い詰める。いやだ、やめろ、とうわ言のように繰り返す口を、ついに橘が自分で塞いでしまうまで。
「橘、声、殺さないで」
 指を抜き去り、両手をつかまえてシーツのうえに押し付ける。いやいやと首を振った拍子に、踊った髪が腕の内側をなぜた。
「や、ぁ、だめっ……っは、なせ!」
「何で」
「やだ、って、言いたく、な、い……っ」
 橘に向ける感情に終わりがないことなんて、心得ていたはずだった。好き、がこだまして消える前に、追いかけるように思って、それでもまだ足りないほど。
 背骨と心臓に繋がる太い血管とを一緒に握りしめたら、こんな感じがするのだろうか。その、言葉、たぶん考えずに口にしてるだろ。だから俺をえぐる。殺そうとする。
 たまらなくなって、悲鳴のような声を閉じ込めるように、呼吸ごと奪うキスをする。上向いているせいで、ろくに自由にならない橘の口の中を好き勝手に漁り、溢れる唾液を飲みこませる間だけを与えて、何も言えなくしてやる。
「……ぁ、佳明……」 
「っは……つらい?」
「っら、くな、けど……っ、も、したい」
 溶ける。溶かしていく。溶かされていく。追い立てるつもりが、気がついたら取り返しがつかなくなっているのはいつも俺の方だ。毒でも薬でもない。ただの水のようなもの。まっさらな光だ。それでも、きっと人ひとりを崖から追い落とすことができる。今日覚えたばかりの言葉、未必の故意。構わないよ、どうなっても、と微笑んだのはたぶん悪意ではなくて良心の方だった。
 橘の爪先が、何をつかもうとしたのか宙をかく。何も、何も許さないように。思うことさえ奪うように。押さえつけて肌を寄せると、くぐもった悲鳴のあとに上擦った声が漏れた。
 まわされた腕の力が強くなる。顔をあげて、たちばな、と呼ぶと、新しく目元に水を溜めて微笑んだ。ばかだな。ばかだね、橘、誰がお前にこんなひどいことしてると思ってるの。その俺にこんなふうにすがりついて。
「っあ、あ。……しあ、よしあ、きっ」
 小さな身体を深く抱き込む。シーツの白が、電灯の光を跳ね返して目に痛い。だからきつく目を閉じた。



 灯りを落として夕暮れの薄明かりに部屋を沈めてから、ベッドに戻った。気だるげに投げ出された腕を引いて、腰を引き寄せる。されるがままの橘を抱きしめて、ああ、これでいいんだ、と思った。ないといけないものが、ちゃんとそこにある感じ。自分が安堵していることに気がつくこと。
 つめたい薄もやは、浅瀬のまどろみだ。髪を濡らして、足元を洗う水。半分だけ息していたい。半分は、死んでいても構わない。
「夕飯食べないとな」
「まだいい。こうしてたい」
 しがみついてくる橘が愛しくて、自分がとても救いようのない生き物のようで、たまらなくなった。何かを失わない、ぎりぎりだ。あとひとすくいで、どうにかなってしまう。
 それもいいと思った。お前が手に入るなら。




飽和までの1ミリ


(2011.08.01) 夜さんにいただいた題名から。ありがとうございました!