夏は昼下がり。夕方がくる前の物憂く、気だるい心持ちを、セロハンテープを剥がすように回想する。箪笥や机に貼られてからずいぶん時間が経ち、黄色く渇いてひび割れたテープを、爪の先でかりかりとひっかく。端の方のささくれのようにわずかに浮き上がったところをつまみ、ゆっくりと板や紙の上から剥がしていく。丹念に、あるいは一息に。どうしたってそこには汚れが残った。粘ついた糊。そうでなければ、テープごと塗料や繊維が剥がれた。
 今、に晒されて、剥き出しの表面は無様だ。
 夏と子供時代はセロハンテープで貼り合わせたように、ぎこちなくくっついている。だから、思い出すことというのは、劣化したものをさらに汚していくことだった。



 まだ父さんと母さんと、俺と、同じ家に暮らしていたときのこと。沸騰すると音の鳴るやかんが台所にあって、冬場はたぶん仕舞われていたのだろうけれど、夏は麦茶を沸かすためにいつも目につくところに置いてあった。色は覚えていない。そこそこ大きかったと思う。沸かした麦茶は冷めるまでそのままに置かれていたので、たいていの場合ガス台の上にちょこんと乗せられていた。蓋を取って覗くと、黒い水のなかにパックが浮いているのが見えた。
 どういうわけか、麦茶の香ばしい匂いは、俺の中で夏と一緒くたになってはいない。
 やかんの注ぎ口には小さな蓋がついていた。それをぱたりと閉めて火にかけると、中の水が沸騰して蒸気になったときに音が鳴る仕組みだった。びっくりするほど大きな、電車の汽笛のような音だった。

 夏は昼下がりの、しんとした台所と、電車の音。
 うら寂しく、汽笛は響いた。窓のない流し台の方から、心をかきむしるような音がした。それを聞いて、俺はどきりとする。カラスの鳴き声やトカゲの背中にぞわりとしたものを感じる人がいるように、電車の音は俺の背骨の辺りに冷たい釘を差し入れる。
 カーペットの上に寝転んでいた父さんが立ち上がり、台所に向かう。読んでいた雑誌のページがそのままに、ぺたりと広げられている。電車の音はまだやまない。扇風機がゆるゆると首を振っていた。家の中の細々としかことは、たぶん、父さんと母さんでちょうど半分ずつ受け持っていて、台所は母さんだけの場所というわけではなかった。今だって母さんは夏になれば麦茶を沸かすのに、少し昔のことを思い出したときにやかんに水を注いでいる後ろ姿は、決まって父さんのものだった。
 かち、と小さな音がして火が止まる。細く尾をひいて電車が行ってしまう。
 やかんの笛を、電車の音と呼んだのは父さんだった。だからその音を、俺も電車の音だと呼んだんだろう。そうでなければ、ただの不気味なうなりだった。
 いつだったか。夏休み中だったとは思うけれど、定かではない。父さんがいて母さんがいなかったのだから、たぶん土日だったんだろう。麦茶を火にかけたあとで、父さんは物置だかどこだかに用事ができたらしかった。
「橘」
 居間で暇を持て余している俺を捕まえて、父さんが言う。
「電車がきたら、火をとめてくれるか」
 うん、とうなずく。
 夏のことだ。麦茶をわかすのは夏だけだったから、間違いなく夏の出来事だった。父さんと二人きりの昼下がりはなぜかどろりと重たくて、浮ついたものがひとつもなくて、どうしてもぎこちなかった。それが、夏だと余計ひどかったように思う。



 昼下がり、台所は静かで、うら寂しく電車の音が響く。
 は、と顔をあげる。夏。まだ当たり前の家族のかたちを俺も持っていた頃の夏。ぐちゃぐちゃと、いろいろな記憶がぞんざいに貼り合わされている夏が、高校球児の投げるボールみたいに飛んでくる。内角低めをえぐる。意味なんてわからない。野球には詳しくない。
「電車だ」
「は?」
 隣にいた佳明の体温が逃げる。暑い暑いとわめいていても、佳明は俺の肌の熱さだけは疎んじることがない。そういうのも、ひたむきと呼ぶんだろうか。少し違う気がする。もっと、角度の鋭い感情だ。
 立ち上がった背中に声を放る。
「電車の、汽笛みたいな音がするだろ」
 耳を刺す汽笛。尾をひいて消えていく。
 火を止めて、やかんはガス台の上に置いたままで冷めるのを待つ。そこまで重なる。
「前、うちでもそんなやかん使ってて。音が鳴るやつ。だから、お湯が沸いたら言うんだ、電車がきた、って。父さんがさ」
 長いこと貼りっぱなしだったセロハンテープは、剥がしても剥がさなくても無様で汚い。
 少し考えた挙げ句に、言葉を切り貼りしていく。佳明から佳明のお母さんの話を聞くことはあまりないし、俺も父さんの話をすることは滅多になかった。今は、あまりにもはっきりと思い出してしまったから。胸を騒がせる電車の音がすぐそこにあったから。
「……前の、取っ手がもげたんだよ。持ち上げた拍子に取れたもんだから、後片付けが大変だった」
「お気の毒さま」
「ほんとに」
 戻ってきた佳明が元の場所に座る。投げ出した手足はすとんと長くて、いつも外にいるくせにあまり焼けてはいない。赤くなって痛むんだよな、といつか億劫そうに言っていた。髪も目も、俺よりはずっと色が薄い。黒い虹彩を浮き上がらせるあせたような茶色を見ていると、同じ人間なのにな、と思う。仕組みも役割も同じなのに、こんなにまでも違う。
 違う人生を、違う感性を、残念だと思うことはないけれど、一度言葉にしてしまったことは、受け止めてほしいと思う。
「佳明、暑い?」
 肘の内側に触れる。肌はやわらかいけれど、筋と骨の質感がありありとわかる。汗ばむのは夏だから、いつかひび割れる夏だから。
 出かけるなら、いっそ日が落ちてからにしよう。いくらか歩けばコンビニがあるし、スーパーもそう遠くない。駅前で行けば本屋もある。どこも夜遅くまで開いていたはず。
 今はお前のそばにいたい。
 物憂い。気だるい。それだって、お前がいたら、悪くなかった。佳明が手のひらで覆って、書き換えてくれるから。
「……いいよ。おいで」
 腕の中に滑り込む。安堵。違う。そんな生温いものじゃなかった。寂寥をもっと。せいいっぱい拾い集めたピースで、可哀想にと自分を罵る。だから抱きしめて。身体中軋むくらい、痛いくらい抱きしめて。
「もっと。ぎゅうってしろよ」
「甘えただな」
「悪い?」
「悪くねえよ。橘はなぁんにも悪くない」
 両肩を押さえつけるようにかき抱かれる。胸板に頬を押し付けて目を閉じていると、ゆうるりと何かが回り始めるような気がした。今ここにあるものも、いつかは黄ばんだ記憶になって、端の方からぼろぼろになっていくんだろう。それを回想するとき、お前は俺のそばにいてくれるかな。俺が何を思い出しても、何を重ねても、抱きしめる準備をしてくれているかな。
 電車の音を、今でも少し不気味だと感じている。
「佳明が俺を甘やかすからだ」
「何が」
「……夏の、これぐらいの時間って、何か寂しいじゃん」
 髪を撫でる手つきは優しい。指先がうなじをかすめたあと、またするりと戻って、毛先で遊ぶ。
「戻りたいわけじゃないけど、もっと、って思うんだよ。もっと、どうにか、ってさ。でもお前が、いるから。これでいいや、って。俺はこれがいい、って、思う」
「どこにも行くなよ」
「うん」
「そんなの許さない」
「ん……」
 セロハンテープを剥がす。一枚。夏と一緒くたになった子供時代、夏休みというのは、ずっとこんなふうなんだろうと思っていた。自由研究と、父さんと二人の午後。まだきれいな箱の中に仕舞われていた現在。真っ白い紙、透明なテープ。指を切ってしまいそうなほどに薄くて容赦がない何もかも。

 シャツの胸元をきつく握る。
 麦茶が冷えたら、氷を浮かべて飲もうか。香ばしい匂いがするだろう。夏とは結びつかない匂いだ。




なつとエトセトラ


(2011.07.29) 夏の昼下がりってなんか寂しい。あと、夏は麦茶が飲みたくなる。