錠剤の白さが目に痛くて、嫌だ、と言った。明りを落とした暗い部屋で、ただそればかりが白かったから。 あからさまなものは恐怖だ。隠さないことも恐怖だ。知らない方がいいことは世の中にいくらでもあるし、知られたくないことだって片手では足りない。手のひらで覆い隠して、目隠しして、できればそのまま鼻も口も塞いでほしい。ここにひとりの人間がいることを、何にも知られてしまわないように。こぼれる吸気からさかのぼって、心まで漁られるようなんだ。さも当たり前という顔をして暴こうとしてくる。世界が酷いことを教えてやるから、お前もその醜さを晒しなさい。そう言って。 大人になることは、無垢でなくなっていくことではない。無垢ではないことを、あからさまにしていくことだ。黒い泥のつまった身を、開いていくこと。 大人は裁かれたがり。あなたの罪を私は知っている。だから、私の罪をあなたは知っていなければいけない。 あなた、というのは誰だろう。俺には佳明だけでいい。俺が汚いことも、何か俺が罪を犯しているならそれも、知っているのは佳明だけがいい。 「橘」 少し困ったような声で名前を呼ばれる。一枚膜がかかっているように、声が遠い。もっと近くで呼んで、と思うのに、舌がまわらなくて何も言えない。 「や……」 「錠剤は嫌い?」 つるりと丸くて飲みこみやすい、その形も嫌だし、真っ白なところも嫌。味も苦いから嫌。 顔を枕に埋めたまま首を左右に振ると、佳明が立ち上がる気配がした。ぼんやりとした頭では、いかないで、の一言を引っ張り出すこともろくにできやしない。 目を閉じて暗闇をつくる。もやもやと落ち着かない薄暗がりでなく、世界で一番暗いところを目蓋の下につくる。くるりと裏返しにして、そこに沈んでしまえたら、と思う。膝を抱えて小さくなろう。そこにはたぶん熱も何もなくて、がんがんと頭の内側から響いている痛みもなくなるだろう。目を閉じても暗い、目を開けても暗い。だったら両目は開けておこう。手のひらがあるはずの場所に目をやって、溶けていく境界に安堵しようか。 早く眠ってしまいたい。頭が痛い。ぎゅうっと、いっそう強く目をつむったところで、肩に手を置かれた。軽く揺すられる。 「橘、こっち向いて」 「なに」 「飲んだら楽になるから」 「やだ……」 「潰して、水で溶いてきた。これなら飲めるだろ」 眺めた世界は平穏だ。佳明がいる。 目が合う。それだけでいいよ。俺にはもうそれだけで。今はそう思っても、すぐにそれだけでは足りなくなる。 「し、あきぃ……」 「なぁに、橘」 タオルケットに押し込んでいた片手をそろそろと佳明に伸ばす。小さな子供の頃、怖い話を聞いたあとに、素肌を晒して眠るのが怖かったときのように。 どんな熱帯夜でも、小さく手足を折りたたみ、首元までシーツに埋めて眠った。だって怖かったんだ。触れた途端に空気がかたちをもつようで。濡れた手のひらになって、こぼれた俺の手足をすくうんだ。その指は人間らしく五本だろうか。もっと多いかもしれない。好奇心にすくわれて、夜が、細い指の形に肌を圧すようになる。 ひたり。 霞んだ頭では上手に思考を逃がせない。怖い、怖い。佳明。 指先を包むようにそっと手を握られる。これじゃあ握り返すことができない。どこへも行くな、って言えない。そばにいて、俺を離さないで、放さないで。 「これ飲めたらキスしてやるから」 「ん……」 キスは好きだ。愛してるの記号だから。それ以上ないほどに分解された、最小で単調な、崖っぷちにあるものだから。愛しているの叫び声に頭の中を揺さぶられながら、欲や飢えに素直に流されていれば、しこりを涙で溶かすように、感情の整理がついた。好き、は尽きなくて、何度言葉にしても狭い胸のうちをたちまちいっぱいにしてのたうち回る。凝ってしまうのが怖かった。だからお前に注いでおきたい。好きも愛も全部、全部。 薄く開いた唇に、指先が差し込まれる。肌ではない味がして、思わず眉間に皺が寄った。ちう、と吸いつくと、すいと指が離れていく。浅い皿に溜まるざらりとした白い水をすくってから、また佳明の指が口元に宛がわれる。舌で触れて、苦い味を舐めとって。その繰り返し。 口の中が熱いからか、いつもよりつめたく感じる。爪の形や間接の節くれを舌でなぞろうにも、薄く塗りつけた薬を俺に与えたらすぐに指は逃げ出してしまう。それが不満で喉を鳴らした。 「堪え性がないのはどっちだよ」 どっちもどっち、ということにしてあげてもいいよ、今だけ。 ちらりと目をやった皿は空になっている。拭いきれなかった薬の粉が、わずかに張り付いているだけ。その視線に気がついたのか、佳明がゆっくりと身を屈めてくる。約束だから。俺をなだめるためだから? お前が欲しがってるんだったらいいのに。 唇で触れた唇はつめたい。熱、あがりそう。 子供の額に落とすキスのように、一度触れただけですぐ離れていくんだろうと思っていたのに、促すように下唇を噛まれた。口を開くと、ずるりと舌が差し込まれる。 「よしあ……ん、ぅ」 いつもより息苦しいのを気遣ってか、深く絡んだかと思うとするりと逃げていく。唾液が糸をひく距離で、名前を呼んで、浅ましく息をして。また貪る。 愛してよと言う前に与えてくれるから、飽和したものをどこに溶かせばいいのかわからなくなる。舌の上でざらついていた薬の粉のように、飲みこんでしまおうか。 いつの間にか、恐怖はかき消えていた。 離さないで。俺もお前を離さないから。 交感する熱 (2011.07.27) |