電柱にひっかかった月を爪の先で弾いて、ご機嫌斜め。猫みたいな目はきらりと光って、瞳孔がまあるく開いている。鳴けばいいのに鳴かない。かわいげのないところがかわいい飼い猫。今日は何が不満なのか、くすぶったいら立ちをゆっくりと夜に伸ばして、橘はこちらを振り返ることもなく凛としている。
 満月から少し欠けた月は、じゅうぶんに明るく、アスファルトの上に影を敷いた。
 少し前を歩く橘の影を踏む。このまま縫いとめて、留めて、捕まえられたらいいのに。
「人の殺し方を知らない人が幸福なんじゃないよな?」
 まるで映画の台詞みたい。少しの幸せな人と、その他大勢のそうでもない人と、たった一人のかわいそうな人。シーツを広げて映画を見たことはある? 水の匂いのするところで。俺はないよ。だからどんなふうだか知らない。滲んで消えてしまいそうな物語が、どういうふうに悲しいか。どのタイミングでハンカチを取り出せばいいのか。そんなに行儀は良くなくてもいいか。袖口で拭いてしまおう。そもそも、泣けたら、の話。
「どうやったら死ぬか、は、知っていた方がずっといい。その方がいいに決まってる。そうじゃなかったらだめだろ。人は案外簡単に死んじゃうってこと、知ってなきゃだめだろ、子供は特に」
 橘が足を止める。
 俺と橘の間に、ありあまる嘔吐感と少しの眠気。だってもう深夜だ。むしろ朝が近い。時計の針はかくりと傾いて、そろそろと子供たちを追いつめる。
 あくびをすると、橘が、は、と笑った。
「知ってて、いざとなったらできちゃって、それでやらなくて済むのが幸せなんだ」
「じゃあこの時代に、この国に生まれてよかったな」
「俺は幸せだよ。お前を殺したけど。幸せだったよ」
 ふわり、橘が笑う。愛してる、とささやく。
 何が足りない? 知らないことが多過ぎて、見ないで終わったものも多過ぎた。血も足りない、いろいろなものが欠けていく、ぼろぼろ。
 でもお前がいる。
 きっと、そういう夢を見た、という話。




あてどないシーケンス


(2011.07.20)