「覚えてる?」
 ふいにナキが言った。
「覚えてるよ」
 ナキの声の余韻が消えてしまう前に、私は言葉を重ねた。 そうしなければ、ナキは発した言葉が消えると同時に、何処か遠くへ行ってしまいそうだった。
 何を覚えていて、何を忘れてしまったかなんて、自分でもわからない。 ただ毎日の中にナキがいて、それは当たり前で、鮮明な記憶だった。
「アズリが本番で失敗して、落ちたことがあっただろ?」
「うん、あったね」
 それは私のしでかした、一番の大失敗だった。 いつだった訪れた、海の見える街での最後の講演、最後の演目。一番最後の大事な役目。
 私はいつもどおりに空中に飛び出した。 風を頬に感じた。 観客の声が一瞬遠くなってから、また一段と近くに来る。 スポットライトの眩しい光。 気分は最高だった。 完璧だと思った。 でも目測を誤ってナキの手を掴みそこない、落ちてしまった。
「シードゥが助けてくれただろ?」
「うん、そうだった」
「もしシードゥが受け止めてくれなかったら、アズリは死んでたかもしれない」
「その後も上手くごまかしてくれたよね」
 シードゥは背の高いピエロだ。 長身に似合わず敏捷で、宙返りが二番目に上手い。
「あの時、アズリの指は確かに僕の指に触れたんだ。掠ったのに、届かなかった……覚えてる?」
「覚えてる。ナキの顔が見えたよ。びっくりしてた」
「僕達、失敗したことなんて一度もなかった」
「練習でも完璧だったね、私達」
「まさか、って思ったんだ。考えてもみなかったよ」
「私達が失敗するなんて?」
 息のぴったり合った私達の演技は一座の売りだった。 どの街でも、ビラには堂々と歌い文句が載り、私達はそれを指差して笑いあった。
「違う。アズリが、僕の手の中をすり抜けて、落ちていってしまうなんて、考えてもみなかったんだ」
 ナキはとても悲しそうにその一言を吐き出した。
「アズリも、考えたことがある? 僕がいなくなるってこと」
「まさか。そんなこと、あるわけない」
「考えておいた方がいいよ。アズリは、今度からは一人でぶらんこに乗るんだ」
 嫌だと、言おうと思った。 ナキと私はこれからもずっと一緒だと、言おうとした。 けれどできなかった。 言葉では嘘をついてごまかせても、ナキがいなくなるということは変わらない。 表面だけを取り繕っても、それはただ余計な悲しさを呼んでくるだけ。
「僕は考えていたよ。アズリに届かなかったあの時から、ずっと」
「私がいなくなることを?」
「両方さ。僕か、アズリか、どちらかがどちらかを置いていってしまうことを」
 ナキがそっと手を伸ばした。 私はそれを掴んだ。 何度も繰り返した動作。 空中に飛び出した私を、ナキが受け止めるときの動作だ。
「ぶらんこに乗ることは、僕達にとって人生そのものだ。離れては、近寄って、飛び出しては受け止めて、受け止められて」
「何が言いたいの?」
「僕達は今、とても綱の長いぶらんこに乗っているんだ。その綱はとてもとても長い。宇宙を取り囲めるくらいに長い綱なんだ」
 ぱっと、繋いでいた手をナキは離した。 指先に微かに温もりが残っている。
「僕とアズリは今、反対方向に向かっていく。だから、ぐーっと行って、戻ってきてまた会うまでに、とても長い時間がかかってしまうんだ。それこそ永遠に等しいくらいの長い時間がね」
 ナキが何を言おうとしているのか、もう私はわかってしまっている。 ナキは私に、お別れを告げようとしているのだ。とても遠まわしに、私を安心させる言葉を選んで。
「待ってるよ、ナキ。だから今度はちゃんと捕まえて」
 ナキは口の端に笑みを浮かべて、小さく笑った。
「長い間練習しなかったら、失敗するかもしれないな」
「そんなことない。ビラの歌い文句を忘れた?」
「覚えてるよ」
 それを指差して、私達はいつも笑い合った。
「双子のぶらんこ乗り、華麗に宙を舞う……ナキは私で、私はナキだから、勘を忘れたりはしないよ」
 永遠にも等しい時間、私は一人で風を切る。 でも大丈夫。 また、いつか。 ぶらんこは行って、戻ってくるから。



(2006/03/17)