フォビア。それがきみの名前。
 きみは少女だ。少年ではなく。それはきみを、きみという具象に縛る要因であり、また、きみについて語るうえで割愛できないことでもあるので、ここに記しておく。フォビアという少女。あるいはひとつの少女性。それがきみだ。
 きみはうつくしい少女だ。これもまたきみの要因のひとつであるので、書き加えておこうと思う。水性のインクの匂いはぼくを安らかにし、いくらでも言葉を生んでくれるから。フォビア、うつくしい少女。香木のような、年月を経た凝った何かのような黒をした髪。きみを取り巻く諸々を見据えるきみの目は淡い亜麻色をしている。精緻な顔の造形は、誰かを生かして誰かを殺す。ぼく? ぼくは筆記者だから、きみには脅かされない。
 きみは、あるときには不快そうに眉根を寄せる。またあるときは、波の立たない漁場のように平坦な顔をしている。きみの日常ときみの平穏は、やるせない速度で移り変わるから。きみのもとには、日替わりでありとあらゆる恐怖がやってくる。針を恐れ高所を恐れ、闇を恐れ空間を恐れ。恐怖は毎日きみに寄り添う。
「日替わりで」
 そう、日替わりで。
 きみは恐怖する。深く高く恐怖する。恐怖はあまりに長くきみと共にあり、やがてきみの本質は恐怖になった。
 だから、フォビア、それがきみの名前だ。

「あなたについては語らないの?」
 ぼくについて語るべきことは何もない。正しくは、ぼくについて語られるべきことは何もない。ぼくはペンで、ぼくはインクだ。僕は筆記者。ぼくは記す、きみについて。きみの要因と本質について。
「ぼくの用意はできているよ、フォビア、きみの今日の恐怖はなぁに」
 睫毛が伏せられ、フォビアの迷いが辺りにはらと散る。今日の恐怖を選択する。
 ぼくはフォビアの外側、フォビアの何にも触れることのない場所で、じっと待っている。昨日の記憶が、一日フォビアを苛んだ恐怖の記憶が、フォビアのなかをひとめぐりし、そうこうしているうちに、たぐりよせられた過去のなかから今日の恐怖が目を開けるのを待つ。
「捨てられる言葉について考えたことはある?」
 フォビアの唇は、あまり色味をもたない。肌と同じ、どこか青ざめた唇で、ささやくように散らばる要因に口づけを落としていく。糸を結んで、二度と解けないよう、きつく締め上げていく。
「いいや」
「ありとあらゆる書き言葉は、記されたそのときから、人の目に触れることを前提とされるわ。読まれることを意図しない文章なんてないのよ」
「日記も」
「日記も。待っているんだわ」
 紙の上に落とされたインクがまどろむ様子を、ぼくは想像する。言葉を抱いて文字は眠る。淡い期待に、頬に色をつけて。
「物語、広告、書類。様々な文章があるわ。なかでも手紙は特別。たった一人のための言葉。その人のためだけに生まれた文章、使われた時間。……待っているんだわ」
 白磁のように冴え冴えとしたフォビアの肌から血の気が失せる。
 恐怖がフォビアを覆う。あるいは内から恐怖が浸み出して、世界の方を侵しているのかもしれない。
 フォビアの指先がかたかたと震え始める。ひし、自分の細い肩を抱きしめる指の先に、血管が浮いた。
「私はこわい」
 さぁ、恐怖。何よりも恐怖だ。
 フォビアは恐怖する。
 ぼくは記す。
「手紙がこわい。あれはあまりにもひたむきで、いろいろなものを信用し過ぎている。どうしてそんなことができるのか、私には理解できない」
 それでいい。さぁ、恐怖を語って、フォビア。
 無理解。それは恐怖にとても近しいところにある観念だ。観念、要因、そして本質。
「受取人が封を切ってくれる保証はない。そもそも、無事に届く保証もない。どうしてそんなにも不用意に、言葉を自分の手の届かないところへ預けてしまえるの」
「手紙恐怖症。それがきみの恐怖だね」
「手紙恐怖症……」
 恐怖が現実に根ざし、息をし始める。
「私は手紙がこわい」
 フォビアは手紙を恐れる。流れるようにつづられた文字に怯え、折りたたまれた便箋に戦慄く。添えられた押し花が、封蝋が、フォビアを脅かす。

 フォビア。きみの名前。無尽蔵の恐怖を本質にしようとするきみの名前。
 きみはうつくしい少女だ。この世界に、きみの恐怖になり得ないものはないから、きみが何かを特別好くことはない。
 最後に、きみがけして知り得ないこと、ぼくが話すつもりのないことについて記しておこう。結局のところ、きみが恐怖しているのはたったひとつ、信頼というものなんだよ。
 愚かなフォビア。







(2011.09.21) phobia