きみに名前を贈ろう、と彼は言った。 僕はすでに名前を持っていたし、その短い名前を彼が呼ぶときの唇の歪み方をとても好ましく思っていたので、いらないと思った。 彼はきっと僕のために、耳に触れても唇に乗せても心地よい、世界への扉となるような名前を贈ってくれることだろう。 けれど僕にはうつくしいものなど必要なかった。 ひどい罵りの文句であったとしても、彼が思いやりをこめて呼んでくれるなら、何より僕には幸福だ。



 僕が彼に拾われたのは、誰もかれもがばかみたいにゆるんだ顔をして通り過ぎる、広場の噴水の前だった。 そこに音はなかった。 あるにはあったけれど、すべて噴水の音に消されていた。 そう遠くないところで弾けた笑い声が、水音に叩き潰されて消えていく。 屋台の売り子の声も大道芸人のバイオリンも、いっそ機械のように無感動な音を上から塗り重ねられる。 幸福な光景からすべての音が消えていた。 だから僕でもそこにいられた。
 音は景色と違って、そこに留まってくれない。 空っぽの僕を通り過ぎ、その途中できらきらした言葉の群れを僕に落としていく。 僕は、見ているだけでいいのに。 少し離れたところから、うつくしくて大切であたたかいものたちを見ていたかった。 ここなら、あふれる音を無かったことにして、まぶしい光景のそばにいられた。 噴水の飛沫が薄く背中にかかって少しつめたい。その感覚もいらないと思った。
 その頃の僕は、僕自身でも、他の人間でもなく、水や空気や光になりたいと思っていた。 透明で、場合によってはあるのかないのかわからないものになって、あまねく満ちたいと考えていた。 そうしたら僕でもこのうえなく優しいものになって、誰かの心をやわらかく包むことができるだろう。 僕が僕のままでいてはけして叶わないことだ。

 幸福な光景を眺めながら、最上の仮定について空想していた僕の前に、彼は立った。 上等の革靴のつま先がていねいに揃えられて僕の方を向いていた。
 彼はまっすぐに僕を見据えて、僕に名前を尋ねた。 錆ついた空気に触れたことなどない、透き通った声だった。 少し考えてから、僕は僕の名前を彼に教えた。 彼は顔をしかめて、本当にそれが僕の名前なのかと、咎めるような口調で訊いた。 僕が彼をからかったと思ったらしい。 僕は嘘をついてはいなかったけれど、信じられなくても仕方がないと思った。 僕の名前はとても人につけるようなものでなく、そもそも心のある人間だったら死んだって口にしないような言葉だったから。 いつもなら、必要になったときには適当につけた名前を使っていた。 名前はただの記号だった。 僕という人間を他から区切ってくれるなら何だってよかった。 そのときには僕の名前よりも、違和感のないつくりものの名前の方が都合がよかった。 それでも僕にとっての名前は、僕の名前以外になかったから。便利な記号を使う理由のない彼に対しては、僕の名前を使うことにしたのだった。

 彼は僕をまっすぐに見て、確かめるように僕の名前を口にした。 仕立てはいいものの年にそぐわないつくりの服に身を包み、険しい色をした目をあどけない顔に乗せ、幼い唇でとてつもなくひどい言葉である僕の名前を呼ぶ彼は、何もかもがちぐはぐだった。 だからかもしれない。 僕は不格好ながらも、笑うことができたのだ。

 彼が何を考えたのかは知らないけれど、彼は僕を拾って側に置き、僕の名前を呼んだ。 そうして初めて僕は、世界に音があること、僕の耳が音を拾う理由を知ったのだった。



 きっと彼は僕の前からいなくなってしまうつもりなのだ。 最後に、彼以外の誰から呼ばれても僕をやわらかく包む名前を残して。だから僕はうなずいた。 彼にはそれ以上の優しさが思いつかなかったのだから。 何て愚かな贈り物。 僕が世界を知らないわけでも、彼が世界を知らないわけでもない。 僕らの知る世界が違うものだったというだけの話だ。 だから彼の思う優しさが僕にとって優しくなくても、彼が僕をないがしろにしていることにはならない。 僕は彼の思う優しさについて想像し、そこに見え隠れする彼の姿を拾い集め、そしてそれを僕の幸福としよう。

 不思議なことに、僕の目は涙を流し始めていた。 今こそ、水や空気や光になりたい。 そうして彼とともに在ることができるのなら。 今まで彼とともに在ったこの身を失うことはつらいことだけれど、これからと引き換えにできるのならそれでもいいと思う。 彼は許してはくれないだろうけれど。 彼の優しさと、僕の優しさは違うのだ、どこまでも。

 ゆっくりと、彼の唇が動いて、僕の名前を呼んだ。







(2010/05/12) きみに名前を贈ろう、と彼は言った