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 そこにある殺意について、私は想像でしかものを言うことができない。 ただ、ためらいなく伸びた両手と、きれいな水が浸みていくような視線から、これは揺るぎないことなのだな、と思った。 秋の終わりに冬が覆いかぶさるように。 冬の終わりを春が蝕むように。 変わりようのない、とても自然なこと。

 雪が溶けて水になり、衣服を濡らしていく。 とても冷たかった。この人も寒いだろうな。 白い息を見送りながら考える。 それから、あたたかい部屋のことを思う。 甘い匂いのする飲み物のこと。 心地よい音をたてて砕けるビスケットのこと。 内側にあるものはどれも優しく、それらを思い浮かべることは、私の心を強く握りしめた。
 ここは寒い。 口から息を吸うと喉が凍りついてしまいそうだ。 雪に埋もれたむき出しの手のひらは痛いほどに冷え切り、指を動かそうとすると私のものではないかのように軋んだ。 背中の下でやわらかい雪が崩れているのがわかる。 仰向けに寝転がった私をすっぽりと包みこみ、どこにもあたたかさを感じさせてくれない。 ただひとつの熱は、私の首を包み込むように置かれた手のひらだけだった。

 雪が降っている。 だから音がしない。 きっとそのせいだ。 まだ動いているはずの心臓の音が聞こえるのではないかと、彼の存在を二の次にして、耳を澄ますことに一生懸命になってしまうのは。

「寒いでしょう」
 彼はとても薄着だ。 コートを着てはいるものの、この土地ではそれだけでは十分とは言えなかった。 首筋に熱を感じるのがとても不思議だ。 とっくに冷たくなっていてもおかしくはないのに。 小刻みに震える彼の肩や、垂れた前髪を見ながら、ふと、思う。 そうか、体温をわけあっているのだ。 彼の手のひらと、私の首筋で。 おかしなことだ。 おかしいといえば、この光景もきっとおかしい。 笑ってしまいそうになるのを我慢しながら、ひどく優しい気持ちになった。 ごまかすように唇が滑らかに動く。 寒さに強張ることもなく、私は淀みなく喋ることができる。
「私はここの冬しか知らないので、慣れていますが、よそから来た人はたいてい冬の曇り空と雪とに驚きます」
 昨日も一昨日も、雪が降っていた。あらゆるものをその白さの底に隠した。 私の感情も、隠されてしまえばよかったのに。 そうすれば、この寒さに馴染みのない彼を、ここに留め置くことにはならなかった。
 早くあたたかいところに戻ってほしい。 濡れたブーツに新聞紙をいれて乾かし、雪で濡れた髪を拭き、石油ストーブの上にやかんを乗せてお湯を沸かす。 紅茶とコーヒーならどちらが好みだろうか。 手のひらはこんなにあたたかいけれど、体の芯から冷えてしまっているに違いない。
「あなたも、こんな冬は初めて見るのではないですか。寒いでしょう、とても」
 私はここの冬しか知らない。 晴れを忘れたような曇り空、ときにはみぞれの混じる無粋な雪。 それでも私にとっての冬とはそれだった。 それ以外のどんな冬も知らなかった。 いつか、よその人の語るような冬を目にしたところで、私にとっての冬が変わることはないだろう。 だからというわけではないが、彼にこの土地の冬を嫌いになってほしくなかった。 何もいいところなどないと言われる冬であっても。

 早く、と言いそうになるのを呑みこんだ。 彼の目を見て、自分が幸福を感じたことに驚いた。 彼の共に過ごした時間はそう長いものではなかったけれど、彼と初めて会ったのは冬が始まる頃だったから、けして短い期間でもない。 寄り添うことを許されあい、近くにいることを許しあっている間に、私にとって彼は何者になったのだろう。 また彼にとって、私は何者になれたというのだろう。

 彼の手の甲に、私の手のひらを重ねる。 驚かせることがないよう、そっとそうしたつもりだったけれど、冷え切った手では無理だったようだ。 彼が手のひらを引き剥がそうとしたのか、わずかな隙間から首元に冷気が入り込む。 それを許すまいと、彼の手のひらを再び私の首筋に押しつける。 じわりとした暖かさが戻った。
 彼の、驚いて見開かれた目が、今度は情けなく細くなり、青ざめた唇がさらに色を失くした。
「あな、あなたと、ち、違う季節を見る、のは」
 声が震えている。 やはり凍えているのだ。 いいからと遮って彼を帰らせたい気持ちになったけれど、彼の言葉を聞いていたかったので黙っていた。 それにどうやら、声が震えるのは寒さのせいばかりではないらしい。 ぽたりとあたたかい水が私の頬に落ちた。 それはそこに留まることなく重力にしたがって伝い落ち、私の肌を細く濡らす。 あたたかかったはずの水はすぐに冷え、熱を奪い始めた。 それが何度も繰り返される。
「春だとか、な、夏、秋とか、そうやって、越えていくの、は」
 彼は溜息をつくように大きく息を吐いた。 それは白く煙り、やがてつめたい空気に混じって消えた。
「こわいんです」

 彼の知る冬景色に、雪などないのだろう。 空は明るく澄んでいるのだろう。 彼の殺意には暗く凝ったところがひとつもなかった。 その揺るぎなさは私の心にすとんと落ち、そのまま空白を埋め、繋ぎ目もわからないほどになってしまった。
 左手は残したまま、右手を彼の頬に伸ばした。 少し乾燥した肌を指先で確かめ、顎の輪郭に沿って手を滑らせる。 すっぽりと頬を包み込むと、おずおずと彼は首を傾げた。 わずかな重みを感じる。
「また、いつか。ここを訪れてください。……冬に」
 薄く笑みをこぼすと、彼もまた微笑んだ。 そしてようやく、安心したように両手に力がこもった。







(2010/03/13) 冬待つ人へ