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そろそろだね、とララアが言ったから、僕は唇を噛みしめた。 手を伸ばして触れた感触から、背中の鱗があらかた剥がれてしまったことを知る。
 ララアの声はいつも、遠くから聞こえてくるみたいにやわらかくてぼんやりとしている。 今日はよりいっそう遠かった。 ララアに背を向けたままのぼくは、きみの目にどう映っているのだろう。

 ごめんね、は違う。
 嫌だ、と言ってはいけない。

 もうしばらくもしないうちに、鱗はすっかり剥がれ落ち、ぼくは羽を得るだろう。 空はいっそよそよそしいくらいに見事な青で、ぼくに両手を広げている。 ぼくが空を泳ぐいきものに変わるための準備は、順番に整っていく。 ぼくの心だけが追いつけないでいる。
「空は、本当にいいところかな」
「そうに決まってる」
 温んだ水は変わらずララアに優しくて、ぼくにも心地いいのに、どうしてもうここにいてはいけないんだろう。 きらきらと弾けて、ぼくの記憶の中で鮮やかにゆらめくものがある。 それはぼくが見てきたものの中で一番きれいなもの。 どうしてそれを置いていかなくてはいけないんだろう。

 橙色の鱗は、いずれ空に棲むさかな。 青色の鱗は、ずっと水の中に棲むさかな。 大人になった橙色のさかなから剥がれ落ちた鱗が水底に沈んでいくのをずっと見てきた。 毎年春になると、陸の上に花びらが降るように、水の中には橙色の鱗が降る。 光をまぶされて、一枚一枚の鱗はどれもこのうえなく美しいものに見える。 でもそれは、とても寂しいものでもあった。 跳ねるように水面へ飛び出して、それまでぎゅっと小さく折りたたんでいた羽を開いたさかなは、一気に空の高みへと昇っていく。 それきり、もう空のいきものになってしまう。 水浴びをすることはあっても、もう水の中を泳ぐことはない。 したくてもできない。

 裏切りとは思わない。 ぼくとララアの鱗の色の違いが、ずっと寄り添ってはいられないぼくらだと語り聞かせてくれていたから。
「わたし、キセの鱗が一番きれいだと思う。どんなさかなの中でも一番だよ」
 痛みも何も無く、小さな軽い荷をこぼすように、ぼくから鱗は離れていく。 また一枚ぽろりと落ちた鱗を、ララアが受け止めた。
「だからきっと、羽も一番きれい。誰よりも、キセが一番。それを誇りに思う」
 にっこりと明るくララアが笑う。 あまりに影の無い、真夏の日向のような笑顔だった。 ぼくは知っている。 日向が明るければ明るいほど、影は濃く暗く、深く沈むことを。 かすかに残された影はきっと濃くて深くて、底なしに深い。
「悲しくないの?」
 放り投げるように口にしてしまった言葉。 聞いてはいけないこと。 でもそれがぼくの本当の気持ちだった。
「ララアは悲しくないの? ぼくにもうほとんど鱗が残っていなくて、羽も生えそろっていること。 もうじきに、ぼくはここにはいなくなってしまって、二度と戻ってこられない。 ぼくは悲しいよ。本当に悲しい。今までで一番悲しい」
「もう一緒にいられないから?」
 先回りしたララアの言葉に息が詰まる。 僕は今、傷ついた、というような顔をしているだろう。 ララアの目はとても穏やかで、深いところまで澄んでいる。
「悲しい、というのは違うと思うよ。悲しければ泣けばいいんだもの」
 息ができなくなりそうだ。今までぼくがぼくをどういうふうに生かしてきたのか、わからなくなる。 苦しい。それはララアの言葉のせいだろうか。それとも、これもまたここを去る準備のひとつなのだろうか。
「キセ。わたしたちは寂しいんだ」
 何てことを言うんだろう。 見える場所に転がっていた事実を、ほら、とララアは拾い上げてしまった。 きれいな色の小石を拾うように、小さな花を摘み取るように。 寂しさというのはどうしてこんなにも清らかで美しいんだろう。 そして孤独な感情だ。他の何とも混じることがない。 とても孤高だ。 悲しみなんかよりもずっと、ずっと。
「寂しいという気持ちから逃げることはね、絶対にできないんだよ。 だから、違うもので隠して、ごまかして、考えないように見えないようにして、忘れてしまうか、消えてしまうまで、どうにかしてしのぐんだ」
「そんなの。そんなことって……」
 ララアは笑った。影が濃くなる。また一枚鱗が剥がれた。
「好きだよ、キセ」
 もう、おしまいだった。
「ララアの青色を忘れないよ。 ララアはぼくが一番だと言うけれど、ぼくはララアが一番だと思う。 さかなの中だけじゃなくて、僕が見てきたものの中で一番きれいだ。 本当にきれいで、きっとぼくはどうしたってララアを忘れられない。 空にいても、どこにいても、ねぇ、ずっとずっと、好きでいるから。 ……好きだよ。大好きなんだ」
 ぼくとララアが同じ色の魚だったなら、きっと口にしなかった。 ずっと側にいて、言葉以外の手段を使って、ふたりでその気持ちを分かち合うことができただろう。

 今の今になっても、ぼくとララアが同じ色のさかなだったらよかったのにと思うことをやめられない。 それはきっととてもすばらしいことなんだという考えも変わらない。 でも、違う色のさかなでも、ララアのことが好きでよかった。 ララアがぼくを好きでいてくれてよかった。 もう僕たちは違ういきものになるけれど、今まで同じさかなとして一緒にここにいられてよかった。







(2010/03/07) さよならの仕度が終わるとき