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 つめたい瞳はただの黒よりも、もっと濃い色をしていて、真っ暗な影がちらちらと過ぎる。 それは漆黒とも濡れ羽色とも呼べない、正真正銘の本物の黒色で、例えるなら星の無い夜の空だと思った。 曇っているせいで星が見えないのとは違う。本当にどこにも光の瑣末の無い、いっそすがすがしいくらいの無限の夜の色。
「甘やかされることと、優しくされることは、嫌いです」
 濁らない瞳に、堅い鉄の意志を見え隠れさせて、シネンシスはそう口にする。
「そうだったか。すまない」
「謝らないでください」
 ぴしゃりと。 一層鋭くなった口調で言い捨て、ふらふらとおぼつかない所作で立ち上がる。 思わず差し伸べかけた手は、彼女の視線に射られて行方を失くした。
 無理に彼女の腕をとれば、激しく振り払われるのだろう。 そうとわかっていてなおも差し伸べることのできる手を、私は持たない。 もしもここにダウェイがいたなら。 彼は無理やりにでもシネンシスが立ち上がるのを手助けするだろう。 強引に肩に寄りかからせて。 そうやって彼は彼女を救う。意識せずに、いとも簡単に救う。 その幸福な光景が目に浮かぶようだ。 怒りの言葉を口にしながらも、シネンシスは結局は大人しくダウェイに体重を預ける。 ダウェイは鼻歌を歌い、ダンスにでも誘うかのようにシネンシスを振り回す。 そこに私がいたなら、慌ててダウェイを止めるだろう。 うなだれて私に謝るダウェイに私は謝る相手が違うとまた小言をこぼす。 シネンシスが耐えきれなくなったように、それでも控え目にくすくすと笑う。 幸福な、とても幸福な光景。

 けれどここにダウェイはいない。 いるはずが無い。 だから誰もシネンシスを救えない。

「おい、その……大丈夫か」
 言ってすぐにしまったと思った。 ぎらりと、憎悪や嫌悪ともとれるような視線を投げられて、思わず身が竦む。 見慣れたはずだった。 こんなシネンシスの様子はもう見慣れてしまったはずだった。 それでも言葉や仕草や視線が、日を経るごとに鋭さと冷たさを増していて、その痛々しさに慄いてしまう。
「私なら平気です。あなただって、ずいぶん傷を負っている」
 以前の、こうやって徹底的に傷ついていく前の彼女なら、きっと笑って大丈夫だと返した。 時にはそんな様子がもどかしく、苛立たしく思うこともあったけれど、今になってようやく思い知る。 あれは彼女の強さだった。 どんなときでも、傷だらけでも、折れることのない彼女の強さであり、優しさだった。 その強さが今の彼女には微塵も残っていない。 強くあろうと必死になって、虚勢をはっているだけ。 傷ついているのだ。 もうどうしようも無いくらいに。 強さどころか、彼女自身をすり減らしてしまうくらいに、彼女はぼろぼろに傷つけられた。

 鼻と口から流れ出た血を袖口で乱暴に拭う。 そうしてそのまま、濁らない瞳のまま、重い体を引きずって彼女は歩いていこうとする。 シネンシスを引き止める術を、私は持たない。 ダウェイがシネンシスのその両足を切り裂いたとき、あるいは両の手に切りつけたときに、彼女はようやく止まるのかもしれない。 けれどそんな終わりさえ訪れないだろうと私はどこか確信めいたことを思っている。 ダウェイのあまりに優しい眼差しと、そこに浮かんだ涙とを想像する。 笑いながら悲しむような、怒りながら泣くような。 すべての感情を一度に吐き出そうとして、かえってもどかしく唇をわななかせるダウェイが、結局は笑って、その手を差し出す。 あるいはその体ごとぶつかっていくのかもしれない。
 それでも彼女はきっとかつてのように彼を見ることをしないだろう。

 何もかもが遅いのだ。 シネンシスの目がかつてのように優しく澄んで、地平線や花の種や猫の尾を映すようにと願っても、どうしてもそうなるための道筋を探し出せないでいる。 もう何度も、シネンシスを見て悲しいと思う度に、痛ましいと思う度に、未来のことを考えては打ちのめされている。

 シネンシスが生まれたのは、都から遠く離れた田舎街だと、以前に聞いたことがある。 街の名前はけして教えてはくれなかったが、それが故郷を嫌っているからでないことは、その懐かしむような口調からうかがい知れた。 おそらく、彼女はその街へは二度と帰らないつもりなのだ。 彼女はいつも、まるで老人が還らない過去を振り返るような様子で、生まれ育った街のことを語ったから。 私はいつしか、彼女をその街に帰してやりたいと思うようになった。幼い日に彼女がそうしていたように、土の上を駆けてゆけるように。 もう駆けはしないかもしれない。 背筋を伸ばして、ゆっくりと歩いてゆくのだろうか。 その光景にはきっと春の日差しが一番よく似合う。 彼女が好きだと言った花。それが咲いているといい。 それから、彼女の隣にはダウェイがいるといい。 疎ましがるようなそぶりを見せながらも、けして彼を遠ざけようとしないシネンシスの姿を、私はいとも簡単に思い描ける。
 けれどそのどれも、ここには無いものだ。 愛でるべき花は私たちが踏みにじった。 ダウェイは彼女に刃を向ける。 シネンシスの瞳は空恐ろしいくらいにただただ研ぎ澄まされていくばかりで、何かを映すということをしない。
「いつまでそこにいるつもりですか。あなたには、あなたの為すべきことがあるでしょう」

 せめてもの救いになれたら、と思っていた。けれどそれではとても足りなかったのだ。 この素直で誇り高く愚かな人を生かすには。
 いっそ泣いてくれたらいいのにと思う。 糸がほどけるように、氷が溶けるように、全身の緊張を失って地面に膝をつけばいい。 顔を手で覆えばいい。 小さくなった肩を震わせればいい。 惜しげもなく涙をこぼし、人目をはばかることなく嗚咽をもらして、壊れたように泣き崩れればいいのにとさえ思う。
 悲しい、あまりに悲しいできごとが、ゆるやかな自刃のように続いていく。 きっと私の感傷さえもがその一部だ。 それだけは唯一、悲しくはなかった。







(2009/12/23) 瞳のなかでうつろうエクネメ