彼らは世界の終末と神による救済を安っぽい印刷媒体に載せて叫ぶけど、僕らにとっては今週末に配られる紙切れの方が重要だ。 模試の結果、っていうね。 無神論者のクラスメイトはやわらかく語る。 その声。 その、重いようで、世界を揺さぶるにはあまりにもかすかな響き。 世界は、世界は、世界は。
 小さな手のひらに握られた終末の日を語る小冊子に、悲しみを見たと思った。 それを冷笑した彼に、僕は驚きを隠せない。 でも、そうか。世界は、こんなものだった。

 校門の前に立っていた金髪の親子は、登校してくる生徒たちに本を渡していた。 父親がどこか遠い国の言葉で息子に何かささやく。 見慣れない色のくるりとした目がこちらを向いて、ぱたぱたと走りよってくる様子はいかにも子供らしく、哀れみを誘った。 知らない国にやってくることも、神さまの存在を語ることも、つたない言葉を添えて僕に本を渡すことも、どれもこの子の意思ではないのに。

 僕は悲しみを見たと思った。 でも杉谷は冷たく笑った。

 くしゃりと、感情がすべて小さくなった気がした。 かみはしんだ。 倫理の教科書の一説を思い出して口にしてみる。 かみはしんだ。 神は、神は、神は、死んだ。 色を失ったままの口調で繰り返す。 苦い錠剤が舌の上で溶けるように、死という文字が浸みた。
「ニーチェ」
「うん」
「神さまの腐る匂いって、どんな匂いだろう」
 夢見るような口調。 今よりさらに子供だった頃から変わらない、優しげに持ち上げられた口角に、純粋な毒が蓄えられている。 その毒はいつか杉谷自身を殺してしまう。 いつからそんなふうに思うようになったのだろう。 僕にとって、杉谷はいつから杉谷だったのだろう。 まだ僕の世界がせいぜい半径3キロほどでしかなかったくらいに子供だった頃、僕にとって杉谷は杉谷以上の何者かだった。 涼しげに笑う杉谷の大人びた様子に、僕は憧れとも畏れともつかない感情を抱いていた。 でも、今は違う。

「いい匂いがするんだろうな」
 何も言葉を挟めなくて押し黙る。 僕らは子供で、あまりに多くのことを知らない。 限りある知識として、杉谷がこの世のくらいものたちを選んだことを、僕は痛ましく思う。
 無数の幸福で満ちている場所。 それが僕の世界だと、少なくとも僕は信じている。 体育の後に飲むサイダー。 日が落ちる前のそれはそれは赤い空。 ノートの端のくだらない落書き、伝言。 ぼんやりと歩く歩道の街路樹の陰。
 何もかもを愛してくれる何かがいたなら、という希望が無意味だとわかっている。 それでも願っている。 いもしない神の永遠。 僕は僕を優しく生かす方法に薄々気がついている。 やってくる不安の住処も知っている。 だから上手に生きていける。 たぶん、杉谷よりもずっと。 それはうぬぼれではないだろう。

 僕に関係するすべての出来事に真摯に向き合っていたら、きっと僕は狂ってしまう。 そもそも、人一人の一生というものは、人の身にはあまりにも荷が重すぎる。 たった一人で向かうには、人生はあまりに大き過ぎる。 ためらいのない子供の落書きのように延びる国道に沿って立つコンビニの、場違いに明るい真夜中のまぶしさみたいに、どんなことでも許容する何かしらが必要だ。 それが人であれ考えであれ、杉谷はそういったものの存在を認めていないように思える。 ひとり、という言葉を噛み潰すようにその体の中心に据えている杉谷の、意思の熱量。
 大人になるにつれ世界を知った。 僕は、杉谷は杉谷良一という一人の人間であることを知り、彼自身にゆっくりと殺されていく彼の未来を恐れるようになった。 心配しているんだと言ったら杉谷は驚いた振りをして、それから僕を笑うだろう。
 友人、という観念についての僕と杉谷との議論は、何度も繰り返されているわりに全く進歩がない。 社会に出る前の子供にとって、友人というのは世界の最も外側にあって、それでいて不完全なやわらかい肉の内側、一番深いところまで抉ることができるもの。 その寒々しい概念は、手放してはいけないと自分の重さでもって主張する。 捨ててしまいたいと思いながらずっと抱えたままでいるのは、思ったよりも頻繁にそれに救われているのは、きっと羽毛のようだから。 僕のぬくもりを蓄えて僕に返してくれるように、僕が僕を優しく扱う手助けをしてくれるから。
 それでいいのに。 杉谷が自分に優しくするために、杉谷の心地よいようにするために、僕を利用すればいいのに。

「あのさ、杉谷。神さまは死んだかもしれないけど、杉谷は生きてるよ。それに、ほら、僕だって、生きてる」
 はは、と杉谷が乾ききった笑いをこぼした。 けっして嘲る様子はなかった。 安堵したようにも見えなかったけれど、少なくとも、ほんのわずかに救われた気配はした。
 僕も笑った。 でももしかするとそれは笑みではなくて、別の表情のできそこないかもしれなかった。

 この悲しみと不安はどこからやってくるのか、僕にはうまく説明できない。 学校の正門の前の、ありふれた朝の光景。 いつもと違うこと言えば、黄砂のせいで空がぼんやりとしていて風が埃っぽいことと、外国人の親子がいること。
 変わらない、人の形をした毒の塊。 他でもない杉谷自身を、彼がそうと知らないうちにゆるやかに壊していく、哀れな毒。 誰も杉谷を救えない。 たとえ世界の終わりがやってきたとしても。
 ただ、僕のばかばかしい言葉を杉谷が笑ってみせたから、今朝は絶望することはやめて、3時間目の数学の小テストのことだけを考えることにした。







(2009/12/24) どうか幸いないきものであるように