きらきらと光る飾りのついた万年筆を、ローズダストはコートのポケットに忍ばせている。 ミッドナイトブルーの、冬の夜の色をしたコート。安っぽい屈折率の星は深い夜にひっそりと沈む。
 この万年筆の中身は、本当はインクではなくて、とても危険な爆発物であったなら、と彼女は空想する。 アカデミーの前庭にこれをするりと落として、何食わぬ顔で立ち去る。 地面に転がった万年筆は、しばらくして内側から弾ける。 華やかな大爆発。気詰まりなアカデミーは大騒ぎ。

 ローズダストはアカデミーを嫌っていた。 無彩色の校舎も堅苦しい制服も、さざめくように満ちている澱んだ空気も。 靴の裏でタイルを叩きながら、ローズダストは大嫌いとつぶやく。 もしも彼女の手を引く人がいたなら、彼女はきっとアカデミーを後にしただろう。



「そんなにアカデミーが嫌いなの?」
 いつか、ローズダストの姉は訊ねた。 大嫌い、とローズダストが答えるとき、彼女は姉の顔を見ようとはしなかった。
「ねぇ、じゃあ、家庭教師をつけて、家で勉強したらいいわ。 あなたはとても頭のいい子だもの。 その方がもっとずっと勉強になるんじゃない?」
「ローズミスト」
 ローズダストは姉のことを姉さんとは呼ばない。 自分とよく似た、ローズミストという名前で呼ぶ。
「生憎と私はアカデミー以上にうちが嫌いなの」
 ローズミストは悲しそうに妹を見つめた。 慈愛に満ちていて、優しげで温かみがあって、私とは正反対だとローズダストは思う。 心の底から悲しんでいる様子の姉を見ると、ローズダストは胸が痛んだ。 家族も家も嫌いだったけれど、2つ上の姉だけは好きだった。
「でもローズミストは別。 いつか私がアカデミーを卒業して、家を出るときも、ローズミストにはさよならの手紙を出すわ」
「ローズダスト。そんなのって……悲しいわ」
 濃緑色のコートの上で、細い白い手にぎゅっと力が入った。 この人は、本当に私のことを心配している。 優しい姉への申し訳なさだけがローズダストのアカデミーと家への未練だった。
 そのローズミストもついこの間卒業の日を迎えた。 それと同時に親類の家に養子に入った。 卒業の後、とあのときローズダストは姉に語ったが、思っていたよりも逃避の日は早くやってきた。 もう未練はない。 どこにも。



 昼休みの終わりはもうすぐで、図書室にはもう彼女一人だった。 昼下がりのぽってりとした色の陽だまりが書架の向こう側に見える。
 書架に並ぶ本の背表紙を眺めて、ローズダストはポケットから万年筆を取り出した。 本を一冊抜き取り、適当なページを開く。 その余白に、濃紺の文字を書き落とした。 誰も知らない背徳に胸が騒ぐ。 姉はこんなことをしなかっただろう。 言語と芸術以外の成績はお世辞にもいいとは言えないにも関わらず、アカデミーの教師たちからの評判は今年の卒業生の中で一番よかった人だから。
 ローズダストはあらゆる教科をそつなくこなし、常に主席だったけれど、それだけだと彼女は思う。 教師には褒められたが、それは彼女の成したことに対する評価であって、彼女の努力や彼女自身に対する評価ではなかった。
 私たちは、まったく正反対ね。 そう言えばローズミストは悲しむだろう。 けれど怒りはしないだろう、けして。

 強い筆圧。 口元には微笑み。 余白に書きつけていく文字はローズダストにしてみれば遺書にも等しかった。 聡明なローズダストはすでに知っていた。 今まさに胸の内に渦巻いている、この感情を収めるべき場所を。 それでも、と思いながら、読点を、不細工なほどに、とりわけていねいにしっかりと書きつける。 そして慎重に元の場所に本を戻すと、ローズダストは鞄を持って図書室を後にした。 靴の裏で静かにタイルを叩く。 大嫌い。 口にしてみると、それほどでもないような気がした。 冷淡な校舎は誰にもひざまずかない貴婦人のようであったし、回廊のステンドグラスは夕暮れが美しく何度も見に行った。 図書室では誰にはばかることもなく好きな本を読めたし、教師は嫌いだったが授業は面白いと思うこともあった。 無愛想な制服だったけれど胸元を飾るリボンだけは華やかで、姉によく似合った。 姉も、ローズダストにそのリボンがよく似合うとほめてくれた。それでもローズダストは出ていくのだ。
 ポケットから万年筆を取り出すと、透明な石を何度か親指の腹でこすったあと、するりとタイルの上に落とした。 何も起こりはしない。 この時間はどのクラスも授業中で、校舎はしんと押し黙っている。
 手を引いてくれる人は現れなかった。 けれど、校舎の裏の塀を乗り越え、ローズダストはアカデミーを後にした。







(2009/03/21) 春のはじまり、優等生の出奔