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 ぼんやりとした音ががらんどうの身体の中をこだまする。 誰もいない広い部屋でひとり息をしているようだった。 足の爪先で弾いた弦のようだった。 それが永遠に続くようだった。
「どうやら、ここまでのようです」
 静かに鼓膜を震わせる穏やかな声は、聞き慣れたそれと全く変わらなくて、胃の辺りまで溜まった空疎な感情の波がぶわぶわと跳ねた。 いつの間にか信じてしまっていた。 二人、という距離。 曖昧な単位で計られた心地よさを過信してしまっていた。 馬鹿ですね。 冷めた脳髄が緩やかに毒づく。
「案外長かったですね」
 くぬぎが呟き、私はその少しばかり聞き取りにくい音を拾い集め、そして絶望する。
「そうですか」
 何が長かったのか。 その期間はどこからどこをさしているものかはわからない。 けれど少なくとも私にとっては短かった。 彼の側に自分がいた年月は、短かった。 嘆いてもいいと思えるほどに。
 私にはあっという間でしたよ。 けして口にはしない言葉を飲み込む。 きっとこの人はその真意を理解してはくれない。
「そろそろ、お別れ……ですか。こういうときには何と言うのでしょう」
「さぁ。私には見当もつきません。死にゆく人を送った経験は無いので」
「そうですね。あなたに聞いてもしかたのないことでした」
 いつになく心象だけが冗舌で、そのくせ唇が動く気配は無い。 わだかまるものたちを力の限り押しとどめて、この人が去った後私は泣くのだろうなと、ぼんやりと思った。 それをこの人は禁じることができない。 私が何を思おうと、どう毎日を消化しようと、それに口を出すことはなくなる。 それは悲しいことですか。 私にはよくわからない。 ただ、途方も無い喪失感だけを想像した。 朝起きて彼がまだ呼吸をしているか確認することも、夜眠ることすら恐ろしいと思うことも、もう無くなる。 それが失うということなら、いったい誰のために手放されるのだろう。 還元される先が、誰か自分の知らない不幸な人であればいい。 あるいはなにものでもなければいい。
 白いというよりも影を帯びて水色をしたシーツの上に、日焼けをしていない手を投げ出して、くぬぎはそっと目をつむった。 睫毛が影をつくる。 この部屋には、今はもう影しかなかった。 暮れなずむ外の景色はどこかとても遠い異国にあった。 この人が最期に目にするものが薄ぼんやりした夕焼けではなく、しのびやかな夜の暗がりであったらいいと思った。 できれば朝と夜をいくつも越えた、遠い遠い月の下で目を閉じるなら、なおいい。
「いつか、話をしようと思っていました。僕が見てきた全てのものの話を。でも時間が足りなかったようです」
「案外長かったのではないですか? さっきあなたはそう口にしました」
「長かったですよ、生きるということは」
 余計なものが何一つ無い、簡潔な四角い部屋の中。 外界とこことを隔てるガラス窓はしっかりと閉められているし、扉はそれ以上に頑丈だった。 それでも時間の流れは等しい。 落ちていく陽と同じ速度で、この部屋は夜に向かう。 いつだってそれは変わらなかった。 特異な場所は、どこにもなかった。
「確かに長かったです。いえ、長かったと言うよりは、長く感じました。けれど」
 唐突に途切れた言葉にふと不安を覚えて、彼の喉元に手を伸ばす。 脈拍を確かめようと思った。 まだ規則的に脈打っていることを期待しながらおそるおそる伸ばした手は、ゆっくりと開いた彼の目にさらされて、ぴたりと止まった。 指先に焦点を結んだ目線が、ゆるやかにこちらに移される。 まだ部屋には、二人分の鼓動があった。
「あなたに会ってからは、あっという間だったようにも思えます、とても不思議なことに」
 静かに陽が沈む。
 音を吸い込みながら、時間はどこか遠いところへ収束していく。
「あっという間、でした。私は……いえ、私も、あっという間でした」
 もはや完全に漂白された思考は、音も無しに環を閉じた。 あとはもうゆるやかに回転するばかり。 がさがさと音をたてて落ちていった言葉が他人事のようだった。
「死なないでください」
「いまさら何を」
 シーツの皺を凝視している私はとても愚かだ。 彼の一挙一動から目を背けて縋っている私は子供じみていていっそ悲しい。
「いまさらでは無いです。ずっと怖かった。あなたがいなくなってしまうことを想像しただけで悲しかった。一人になるのは、嫌、嫌です」
 一人きりの朝の匂い。 部屋の隅の埃を巻き上げるのは私だけになる。 どの場所にも彼は刻み付けられない。 それらを何度も思い描いて、戦慄した。
「あなたが、しぬのが、こわい」
 口にした言葉の拙さに愕然とした。 くぬぎの手のひらが私の頭に降りてくるまでに、それだけを思う余地はあった。
「人が死ぬと言うことは、とても不思議です。 動いて喋っていたものが、ただの塊になって腐敗していく。 そうして静かに、物質としては、もうどこにも存在しなくなる。 僕がいたという形跡さえ掻き消える」
 あたたかいと思った。 このひとはあたたかい。 いつもいつもそうだった。
「それでも僕は、ここにいました。 あなたと、僕と、ここにいました。 だからあなたは生きてください。 できたら僕のことを忘れないで。 そうしたら、僕は……きっと、嬉しい」
「死んでしまっているのに、嬉しいんですか」
「嬉しいです、きっと。 そう思えるかどうかはわかりませんけど。 想像すると、嬉しいです。 だから、そういうことなんでしょう」
「怖くはありませんか。死にたくないとは思いませんか」
 呼吸に紛れるようにして、いたずらに重ねた音。 一瞬たりともこの世には存在しないものたちだ。 だって、何の意味も無い。
「さぁ。よくわかりません」
 くぬぎが笑った。 私は何とかそれに応えようとして、くぬぎにおしとどめられる。
「あなたに、どんな言葉をかければいいのでしょう」
「わかりません。……僕は、あなたに感謝を」
 正しいものはなかった。 世界のどこにも。 だから私たちはできるだけ残酷でないもの、冷たくないもの、とげとげしくないものを選び取っていくしかない。 それはきっと、幸福なこと、なのだろう。
「私も、あなたに感謝を。ありがとう」
「こちらこそ、ありがとう」
 初めてこの人に感謝の念を伝えた。 その喜びだけで耐えていけるさよならではないだろうけど、でも、くぬぎが何の重みも感じさせない笑みを見せたから、それだけは覚えていたいと思った。







(2007/11/09) 飛び去る箱庭