くらり。 また、くらり。 視界の中に見えない染みがあるみたい。 ときどき、小さな光を放つみたい。 そのたびに、くらり、くらり。
 夏の真ん中でひとりぼっち。 光の欠片がきらきら。 あったかいを通り越して苦しい。 夏に恋焦がれたのは僕。 冬を嫌ったのは僕。 ひまわりは好きだよ。 雪が降り続くのは嫌いだよ。 太陽が欲しいよ。 季節が巡るたびに忘れてしまって思い出せない、夏の太陽が、今はこんなに近いのに。 これは僕の欲しい太陽じゃない。 言ってみたら悲しかった。
 夏の真ん中にひとりぼっち。 だからこうやって。 僕の指先が探っているのはどこ。 そこには氷が張っている?  そこには雪が積もっている?  帰ろう。 ねぇ、帰ろう、ねぇ。 さむいところへかえろうね。 つめたいところへかえろう、ねぇ。
 ひまわりを丸ごと押し花にできたらいいのに。 たくさん押し花にできたらいいのに。 そしたらずっと、夏なんて欲しがらないで、暖炉に火が燃えている暖かい部屋の中で、ひとつの冬だけを大切にできるよね。

「大嫌いだ」
「何がですか。ほら、りんご剥きましたよ」
「夏。僕、夏って嫌い。ねぇ、りんごすりおろしてって言ったじゃない」
「すりおろすやつ見つからないんですよ」
「探してよ。変色したやつ嫌いだから、急いでね」
 あなたは嫌いなものばっかりだ。 アレクセイがぼやく。 うるさいなぁ、と答えて、台所へ行くんだろうアレクセイの背中を見送った。 開けっ放しの戸から、廊下へ光が降り注いでいるのが目に入る。
「まぶしい」
夏が嫌いな理由はたくさんある。 冬が嫌いな理由を挙げるのが実は難しいのと同じように、確実にこれだと言える大きな理由は無いのだけど、いくつかのものが積み重なって重たくなって、僕の気持ちは確かに嫌いの方に大きく傾いている。 だから、夏なんて、大嫌い。 何もかも、ろくなものじゃない。 唯一夏にいいところがあるとしたら、それは冬に夏を思えるところ。 雪が降らなくなって氷が溶けて、夏になっていくことを楽しめる、それだけ。

 器用に剥かれたりんごの皮を皿からつまみあげて、試しに齧ってみた。 渋い。 おいしくないね。 それでも嫌いではないのはどうして。 僕の気持ちしだいで何もかもを好きと嫌いに分類していく。 好みなんてそんなもので、それでいいんだろうけど、りんごの皮の渋さを嫌いではない僕は、少しだけ、ずるいやつだと思った。

「何してるんですか。待ちきれないからって皮食べないでくださいよ」
「おいしいかなぁ、って思って。試しに」
「おいしかったですか」
「ぜんぜん」
 でも嫌いじゃないよ。 そう言おうとして、やめた。
 ことり、サイドテーブルの上にガラスの器が置かれる。 その上で、しょりしょりとりんごがすりおろされていく。 この音、嫌いだなぁ。 つぶやくとアレクセイがゆるりと笑った。 少し長い前髪の影になる顔。 口元だけがわずかに見えて、目元はどうだかわからない。 でも笑っていた。 アレクセイは、笑っていた。 それはつまり、しあわせ、ってこと?  アレクセイはしあわせってこと?  僕にはわからない。 いつまでたっても、何一つ理解できやしない。
「早く夏が終わればいいのに」
「冬がいいんですか。冬には冬が嫌いって言ってたじゃないですか」
「冬は、嫌い、だよ」
 でも、ねぇ、帰ろうよ。 暖かい暖炉。 ぱちぱちと、小さな音が聞こえるよ。 寒かったらお酒を飲もうね。 毛布をたくさん重ねて、温まろうね。 そうして夏を思おうよ。 それはきっと、とてもとても暖かいこと。
「冬は、あったかいよ」
「そうですね」
 しょりしょり。 涼しい音がする。 僕はきっと嫌いなんだよ。 何もかもが。 くらくらする。 頭痛がしている。 耳鳴りの向こう側に、何かが踊っている。
「早く冬になればいいのに」
「冬になれば冬になったで、あなたは言うでしょう。『早く夏になればいいのに』と」
 ガラスの器に銀色のスプーンを添えて、どこまでも冷たい色のりんごが差し出される。 何も言わずに受け取ろうと器に手を伸ばして引き寄せようとして、アレクセイに阻まれた。 大きな手のひらが器を掴んだまま離さない。
「アレクセイ?」
「あなたは、早く老いていきたいわけでは、ないのでしょう」
 ひとつひとつていねいに区切った言葉に、少しだけ奇妙な気持ちになった。 ざわざわして、凪いでいた水面に、ぽたりぽたり、雫が落ちて。 ぽつねんと、白い指先だけが取り残される。
「私は、冬が嫌いではありませんよ。夏も、好きですよ」
 ねぇ、帰ろうよぉ。耳の奥でくすぐるように反響する。 おぉんおぉん。 風の音とも海鳴りとも違う。 機械じみたものではなく、かといって生き物のものであるはずがなくて、ただのおまけとして、僕の中で響く。
「あなたが好きなものは好きです。あなたが嫌いなものも、好きです」
 空いた方の手でシーツに皺をつくった。 そうでもしなかれば、人の手でつくられたものに触れていなければ、おそろしい音に飲まれてしまいそうだった。 時間の流れがもし音として聞こえたら、こんな音がするのだろうね。 おぉんおぉん。 物悲しい、絶え間ない、その音。
「好きになってみませんか。冬も夏も、そこにあるものも。全部を、少しだけ、好きになってみませんか」
 そうでもしなければ、私は生きてはこれませんでした。 あとに続くアレクセイの言葉を想像してみる。 お前は、どれだけたくさんのものを追い抜いてきたの、それとも、置いていかれたの?  僕はここにいるなんて、それは何の救いにもならない。 今までもこれからも、アレクセイが僕のそばにいるってこと。 それだけが全部で。 結局僕は短い尺度の中でしか、呼吸をしていけないんだね。 寒さと暑さをいくつか繰り返すだけで、僕はアレクセイを置いていってしまうんだろうね。

「嫌だね」

 何もかも、ろくなものじゃないんだ。 僕とアレクセイはそれぞれひとりぼっち。 耳の奥で響く時間が邪魔なのに、でもどうしようもなく欲しいんだ。 こんなわがままな僕を、アレクセイは嫌いになればいいよ。 何もかもを好きにならなくてもいいよ。
 早く冬になればいい。 雪が降ればいい。 その雪から逃げ出せなくなれば、もっといい。 時間も、全部を閉じ込めてぎゅっと押しつぶしたまま、太陽に恋焦がれたいよ。 だから、ねぇ、つめたいところに帰りたい。 返して、僕を返してよ。 僕とアレクセイをいつもの冬に返して。 どこまでも閉じた場所へ帰っていきたい。 そんなところを見つけられた試しなんてないのに。 僕は優しさの中で願っている。

「欲しいものは、あるよ」
 少し考えたあとで、アレクセイの顔を見ないようにしながら、言った。 アレクセイは僕が言葉を繋げるように促さない。 だから黙っていられる。 次の冬まで貝になれたら、と思った。 それだけの猶予があれば、と思った。 祈った、と言い換えることができる悲しさに、アレクセイはとっくに気がついている。
「おかわり」
「はいはい」
「早く行ってよ」
「わかっていますよ」
 早く出て行って。 この部屋から、僕の側から。 だけどすぐに戻ってきて。
 もう一度アレクセイの背中を見送りながら、耳ざといアレクセイに聞こえてしまえるくらいの音量で、早く冬になれば、とつぶやいた。







(2007/11/09) 夜明け前の地平線を凍らせて