放課後の教室は十代の切なさとやるせなさを一手に引き受けて、なおかつ優しい。
どうしてだか甘やかしてくれる。
大人になんてならなくてもいいよ。
この一瞬だけは永遠の国を模倣しているからね。
そう言っているような、錯覚。 電気が点いていないせいで教室は薄暗い。 でも金色によく似た色をしている。 中途半端に忍び込んでくる西日のせいだろうか。 そうでなければいいと思う。 この嘘みたいな金色はありえないものの力で、廊下に飛び出て走り出したなら、飛行する船の船出に間に合うのならいい。 行き先は永遠の国、だといい。 視界の片隅を占める空の青が夢のような現実味を帯びていて、遠い。 クリアな青。 おまえは雲をどこに置いてきたの。 雲で隠してくれなくちゃ困る。 空には何も無いと知ってしまう。 永遠の国への航路なんて無くて、船は来なくて、そもそも永遠の国なんてどこにも無かった。 山を越えたらあるだろうか。 海の上にはあるだろうか。 無意味な期待だ。 空は一続きで、そのどこにも永遠に至る方法は無い。 「野上」 「何だよ」 「野上シンヤ」 「何」 「俺、おまえのこと、シンヤって呼びたかった」 「何それ。何で、そんなこと」 桐谷は机の背もたれの上に組んだ両腕を乗せて、その腕に頬を埋めている。 一番窓際の列前から二番目。 俺は五番目。 机と椅子が二組、俺と桐谷を隔てていて、その距離は思ったよりも遠かったのだということに今になって気がつく。 半分隠れた桐谷の顔が、よく見えない。 「理由のあることしかしちゃいけないってわけ?」 急にがらりと変わった気配に驚かされた。 牛乳を飲み干したら、コップの中にビー玉が沈んでいた。 そんな感じ。 曇ったガラスの内側でビー玉はからからと転がる。 そうして飲み込まれることを期待している。 「理由がなくちゃ、いけないわけ? なんにでも、逐一ていねいな説明が要るわけ? 博物館のプレートみたいに、分類して分析して。そういうのが、必要なわけ? じゃあ理由が無いときはどうすれば、いいの。 わけわかんなくてぐちゃぐちゃで、理由なんてどこにも見つかんないときは、どうすれば、いいの」 駄目だ、と思った。それこそ理由なんて無い、直感みたいなもので、駄目だと思った。 思えば、コップの中のビー玉は牛乳に包まれながらも、時おりこつんと音を立てていた。 静寂の中でかすかな存在を示していた。 「桐谷」 「やだ」 「何が」 「シンヤって、呼んでよ。名前で、呼んで」 聞こえない音を立てて世界が回転する。 それはきっと悲鳴に似ていると思った。 金属と金属が擦れるような音、ねじ切れる寸前の鉄、きりきりぎしぎし。 それから甲高い泣き声。 何もかもが最期だと言わんばかりの悲鳴をあげて世界は回る。 明日の次は明日。 その次の明日へ、世界は回っていく。 俺たちはその世界に取り残されない。 俺たちを連れて、道連れにして、世界は回っていく。 「不便だろ」 「今だけ。今だけだから」 あ、きらきらしてる。 金色の、猫みたいな目の桐谷。 泣いてるのか、と思ったその瞬間からしてもうすでに遅かった。 「晋也」 金色の光が翳る。 ほらやっぱり嘘だった。 永遠はどこにも無い。 だんだんと赤くなっていく西の空と、紺色に近くなっていく東の空を一様に視界に収めながら、雲が無いことを今更ながら呪った。 空には何も無い。 永遠の国への航路も、船も無い。 夜になっていく馬鹿みたいに大きな空は一続きで、そのどこにも永遠に至る方法は無い。 だけど、優しい教室は、この一瞬だけは永遠の国を模倣している。 「……ありがと。ありがとな、慎也」 もっと何か言いたいと思った。 桐谷を晋也と呼びたいと思った。 桐谷に慎也と呼ばれたいとも思った。 「理由なんて、無いんだよな。でも、いいんだ。無くたって、いいんだよ」 声はかすれていて、ガラスを引っかいているような気分だった。 無様に塗りつぶされていく窓ガラス。 青から赤、それから紺。 どうして青から黒へ直接変化しないのだろう。 赤色を挟む理由を誰かに聞きたかった。 光のスペクトルなんて、物理教師みたいな説明でなくて、もっと不確かな理論で説明して欲しい。 桐谷の顔がどんどん見えなくなる。 きっと嘲っている。 あるいは泣いている。 どっちだって大差は無い。 途方にくれる馬鹿な俺たちのための、優しい教室は、もう終わってしまった。 「帰ろうか」 「ん。俺これ出してくる」 立ち上がった桐谷が遠かった。 何だっておまえ、誰もいないのに律儀に自分の席にいたんだ。 人のことは言えない悪態。 理由は無かった。 見えないものに対して腹立たしかった。 「晋也!」 走り出した背中に、思い立ったように声をぶつけた。 桐谷は立ち止まって、でも振り返らない。 また走っていく。 ぺたぺたと間抜けな足音と一緒に、俺が追いつけるくらいのゆるい速度で、走っていく。 だからおまえは馬鹿なんだ。 再び、人のことは言えない悪態。 だって理由なんていらないんだろ。 だから、追いついたら鞄をぶつけて、隣に並んで、黒く沈んだ廊下を歩いていける。 「野上」 「何だよ」 「野上シンヤ」 「何」 「俺、桐谷シンヤって言うんだ」 「知ってるよ。それで?」 泣きそうだった。 泣いてしまえそうだった。 「運命なんてありえないよな」 永遠なんてありえない。 そんな言葉を重ねた。 理由は無かった。 それでもいいような気がした。 (2007/04/29) |