言葉を忘れた旅を始めて、もう半年近くが経った。 いくつもの街を見て、いくつもの景色を見て、思い出と名づけてもいいような記憶を両手では足りないくらい積み重ねた。
 それでもまだ僕たちには見ていないものがたくさんある。 見たいもの、聞きたいもの、触れたいもの。 それには僕たちが思いもつかないようなものも含まれていて。 これからどんどん増えていくのだろうと想像することは容易だった。 だから、ひとつずつ、焦らないでじっくりとゆっくりと、丹念に旅をしていこうと、そういう約束だった。 先のものを思い描き過ぎて、今この瞬間を楽しめないなら、全部に意味が無くなる。 何もかもを後悔しないように旅をしようと、僕たちはそういう取り決めを交わした。 まだ、言葉を忘れていない頃に。 今のところ僕たちは、その約束にきちんと従えていると思う。
「綺麗だね」
 雨粒の滑り落ちるフロントガラスは、びょうびょうと泣いているようで、綺麗だった。 僕はそれを口に出して伝える。 せめてミヅカには僕の気持ちをわかって欲しいと、伝える努力をする。 ミヅカが何か言葉を返すことは、けして無いけれど。
 薄暗い車内に、雨が車体を叩く不規則な旋律だけが満ちる。 窓を開けたいと思った。 雨の匂いを嗅ぎたいと思った。 けれどそうしてしまえば、このしとしととした優しい雨音は逆に遠ざかってしまう。
「雨が止んだら出発しようと思うんだ。次はどこへ行こうか。このまま南下する?」
僕たちはどこへでも行ける。 時間をかけさえすれば、たとえ地の果てにだって辿り着ける。
 絶対に行けない場所もあるかもしれない。 北の極点や世界の最高峰。密林の奥地や海の底。 そこに僕たちは届かない。 けれど想像することはできるし、夢に見ることもできる。 いつか見てみたい景色を思い描いて、そこへ到達する瞬間を夢想して、それを実行するための方法を考え付く限り並べ立ててみる。 それは、実際に行ける場所へ向かうこととは全く趣の違う楽しい旅だ。
 まだミヅカが言葉を忘れていなくて、無慈悲で残酷なそれらを持て余していた頃から、僕たちは空想の旅人だった。 照りつける太陽の下で、永遠の冬を閉じ込めた極北の国を訪ねた。 夜には砂と星とがすっかり交換された、まばゆい砂漠を歩いた。 雨の日にはやがて沈んでしまう世界を思って船出した。 雪の日には真綿の国を思い描き、真っ白な家を建てた。 旅に出ている間、僕たちは幸福だった。 甘い砂糖菓子のような、繊細な夢想の中で、手探りで一歩一歩ゆっくりと旅をした。
 思えばずっと昔から、僕たちの旅の仕方は変わらない。 どんな記憶も、けして僕たちから零れ出ないように、全てのものができるだけ長く僕たちの中に残っているように、ゆっくりと丹念に旅をした。 約束が無くとも、僕たちはあらゆるものを無駄にはしなかっただろう。 全てのものに触れて、記憶に留めようとしただろう。
 けれど僕たちは恐れた。 旅の道のりを当たり前の幸福と思ってしまうこと。また空想の旅人に戻らざるをえなくなること。 だからあの約束を、言葉ではない方法で何度も何度もなぞらなくてはならない。 今のところ僕は、その決意にきちんと従えていると思う。
「綺麗だね。それに雨音も、とっても綺麗だ」
 ミヅカはゆったりと身を倒して、雨音に耳を傾けているようだった。 伏せた睫毛がときどき震えて、何か見えないものに視線を走らせている。
 いったいミヅカが何を考えているのか、僕にはわからない。 一年前、ミヅカはいっさいの言葉を手放してしまったから。 たぶんそれは、ミヅカが世界に対抗し得る唯一の方法で、それ以外の手段をミヅカは持たなかった。 傷ついたり、傷つけたり。 その繰り返しを続けていくことに、ミヅカは耐えられなかった。 慰める言葉も励ます言葉も、ミヅカは持っていたのに、それも捨ててしまった。
「止まないね」
 目を閉じて、これからの旅路を思う。 どこへ行こう。 どこへでもいける。 時間をかけさえすれば、たとえ地の果てにだって辿り着ける。
 でもそれは本当だろうか。 本当に僕たちは自由だろうか。 だってミヅカはまだ言葉を取り戻さない。 それはつまり、まだミヅカが白い家に囚われているということだ。 未だに、悲しいことから抜け出せていないということだ。
 いつか僕たちの旅が終わるとしたら、それはけして行けやしない場所へ到達したときではなくて、 見渡す限りの草原に息を呑んだり、突然の雨に驚いたり、そしてその雨をうっとりと眺めたりする、そのときの気持ちを言葉にできたときだ。
それ以外の終わりを、僕は認めない。 追いつかれたり、立ち止まったり、そういうのはいけない。
 いつの間にかミヅカは身を起こして、ガラスと、薄い雨のカーテン越しに見える街並みを眺めていた。 すっきりとした横顔に、雨粒の影が流れていく。
「綺麗、だね」
 僕は窓を開ける。 雨の匂いが車内に流れ込んでくる。 ミヅカと僕はそのくすぐったさに身を潜めて笑う。 あぁ、何だ。言葉なんて、必要無いじゃないか。 少なくとも今の僕たちには、必要の無いものだ。



(2007/04/08)