殺してやる。
その言葉とは裏腹に、濡れた頬の更にその上から涙が流れ落ちていく。
すべからく、涙というものは純真な色に染まっている。
なぜなのだろう。
どうして涙は透明なのだろう。
この僕のどこにそんな清らかなものが沈んでいたのだろう。 「殺してやる」 言いながら、女の首に手をかける。 冷たく冷え切った手のひらに、女の体温はあまりに温かく、毒だった。 伝わってくる鼓動は無意識の凶器だった。 女の中に眠る命そのものが、手をかけた首筋から幾筋もの水の流れとなって僕の中へと滑り落ちてくる。 落下速度はこの世の法則を完全に無視するほどに速く、何もかもを凌駕する速度で、僕の感情を巻き込んで落ちていく。 「どうしたの?」 耳触りのいいアルトが、鼓動を追いかけるようにして落ちてくる。 少し前、こんな風に僕に声をかけた人を、知っていたような気がする。 慰めるように、励ますように、優しく寄り添ってくれる言葉を持っている人だったように思う。 「ころさないの?」 女は僕の手の中で身じろぐ。 首を傾げると、髪がさらりと流れて右の目を隠した。それをそっと除けてやる。 まっすぐな髪の毛はさらさらとしていて、指先から熱が奪われていくように冷たく感じた。 しばらく温かい女の首に触れていたからかもしれない。 「怖くないのか」 殺されるんだぞ。死体になるんだぞ。 それがわかっていて、どうして怯えない。 「わからないの」 首にかけた手に、心もち力を込めると、女はゆったりと目を閉じた。 「よく、わからないの」 もう一度、囁くようにつぶやいた。 小さな小さな声だった。僕はその中に、ひそやかな絶望を感じて黙り込む。 どこかが、欠けてしまったのかもしれない。女の中の一部分。 世界に繋がって、触れている部分がぼろりと剥がれ落ちてしまったのかもしれない。 だから女は、女と外との世界の関連性を見失ってしまったのかもしれない。 少し前まで、女は首筋に触れられることを極端に嫌った。軽く触れただけでもくすぐったいと言って、身をよじって逃げた。 なのに今は触覚がすっかり消滅してしまったかのように、首にかけられた手に何の反応を示さない。 それがたまらなく悲しい。どうしても許せない。 「ねぇ、ころさないの?」 「……殺してほしいの?」 「わからない」 だってわからないのだから。何もかも、本当に何もかも女はわからなくなっているのだから。 判別がつかない。あるいは理解できないという小さな単位でなく、全てがごっそり女から抜き取られた。 女がそれらを自分で手放したと思いたくない僕は、女から何もかもを奪った何かを憎みたくて、憎めない。 「ねぇ、あなた、どうして泣くの?」 「泣いてないよ」 「嘘つき。泣いてるくせに」 泣いてるくせに。悲しいくせに。何も知らない子供みたいに、どうしていいかわからないくせに。 「どうして嘘つくの? 泣いたって誰も怒らないのに」 「男は泣いちゃ駄目だって、姉さんが、言った」 他の誰でもない。姉さんはたった一人しかいない。その姉さんが言ったことだ。 女の首から僕の手のひらに、残酷な鼓動が伝わってくる。 どくんどくんと脈打って、その度にこの人は僕から遠ざかる。 ゆっくりと、またひとつひとつ忘れていく。 「そうなの?」 「……昔の話。きっと姉さんも忘れたよ」 するりと手のひらを解く。 鼓動は消え、体温の熱さも消え、隙間の空いたドアから流れ込む冷たい空気が僕の手のひらを洗う。 誰もいない廊下。外へ続く廊下。 女がそこに出て行くことはない。 「何か、欲しいものはない?」 女に向かって問いかけると、女は、こればかりは変わらない昔の癖で小首を傾げ、喉の奥からうなるような声をかすかに零して思案する。 それから案の定予想していた返事が返ってきて、僕は当たり前のように落胆する。 「わからない」 僕は女が欲しがるものを知っている。正確には、かつて姉さんが欲しがったものを知っている。 派手なパッケージのビスケット。 ざらざらの画面の古い映画。 使用用途のわからない奇妙な形の置物。 スーパーで売っているミネラルウォーター。 編み物なんてしないくせに、綺麗な色の毛糸をたくさん。 「チョコレート、食べる?」 「食べる」 取り出したミルクチョコレートに、女は華やいだ様子を見せる。 銀紙を剥がして、一欠片、割って渡すと、女はすぐさま口に放り込んだ。 不思議な心持ちだった。だって姉さんはミルクチョコレートが嫌いで、ビターチョコレートしか口にしなかった。 それもとびきり苦いものを好んだ。 「おいしい?」 「うん、甘い」 女は笑う。ほわりと、心底幸せそうに笑う。もう二度と、ミルクチョコレートの甘さに顔をしかめることは無い。 答えるように情けない笑顔を女に向けた後、僕はもう一つ持っていたビターチョコレートを一欠片、口に放り込む。 粉っぽい、カカオの味がした。 (2007/02/05) |