運命、宿命。 それから巡り合わせだとか、定めだとかいう言葉があるでせう。 わたくしには、それがとても信じられなひのです。 いへ、信じたくなひのかもしれませんわ。 だつて、ねえ、すべてが定められてゐるとしたら、何もかもが、さうです、何もかもが、悲しすぎるでせう。
 わたくし、パンドラの匣、といふおはなしを知つてゐますの。ギリシヤの神話ですのよ。
 あなたはわたくしのことを、何も知らない、小娘だと思つてゐたのでせう。 さうね、口ばかりが達者な。 それは確かにさうですけれど、でもわたくし、肝心なことと、それからときたま肝心でないことも知つてゐますのよ。
 パンドラの匣のおはなしは、鶴見のをぢさまに聞きましたの。 あなたもをぢさまのこと、ご存じでせう。 をぢさまは、とても博識でいらつしやるのよ。 をぢさまにわからなひことなんて、この世にただのひとつもなひように思へるわ。 ええ、もちろん、たくさんおありになるのでせうね、をぢさまの叡知が、およばなひことも。 けれど、ともかく、をぢさまはパンドラの匣のおはなしをご存じだつたわ。 それから、パンドラの匣の本当のおはなしも、ご存じだつたわ。そしてわたくしに教へてくだすつたのよ。
 あなた、パンドラといふ女の方がゐたのをご存じかしら。 わたくしも初めて知りましたのよ。 その、パンドラといふ方のことを。
 パンドラはね、匣を託されましたの。 けして開けてはいけないと、きつく言はれて。 けれどパンドラは開けてしまつた。開けてはいけない匣を、開けてしまつた。
 女は愚かだと、そんなことを言はなひでくださいましね。 好奇心は、女にも男にも等しくあつて、ときには男の好奇心の方が勝ることさへ、ありますもの。 さういうものですわ、好奇心なんて。 くだらない好奇心の所為で、人はいろんなものを失ふのね。 たとへば夕鶴。たとへば初音。……あら、どちらも鳥のおはなしだわ。 素敵ね。
 さあ、かくして、パンドラは匣を開けましたのよ。 匣の中には、中にはこの世の災厄すべてが入つていたんですの。 パンドラは慌てて匣を閉めたけれど、もうすでに災厄はすべて、外へと、この世の中へと出ていつてしまつたあとだつた。 パンドラは悔やんだでせうね、自分のしてしまつたことを。 そして泣き伏した。 パンドラのきれひな涙は、絶望をも塗りつぶすような清らかさでしたの。 けれども、世界を洗うにはとても足りなかつたの。
 どれだけ涙を流したでせう。 しばらくたつて、パンドラは匣の中から声がすることに気がつきましたの。 小さな声はパンドラに、もう一度匣を開けるように促しましたわ。 パンドラは、もう一度、匣を開きましたの。 その白ひ指で、そつと蓋を持ち上げて、泣き腫らした目で匣の中を覗きこみましたの。 すると、ああ、そこには、そこには希望が、希望が入つておりましたのよ。災厄の溢れた世界の、未来への希望が。
 素敵なおはなしでせう。さう思ふでせう。 でも、ふふ、わたくし聞きましたの。このおはなしは嘘なのよ。 本当のおはなしはねえ、パンドラが蓋を閉めたとき、たつたひとつだけ、外へは出てゆかなかつたものがある、といふものなのよ。 あなた、それが何だかおわかり? あのねえ、ほとんどすべての災厄が溢れ出てしまつて、でも最後にひとつだけ出てゆかなかつたものは、未来を知る力だつたのよ。 それが出てゆかなかつたから、人は未来を知つてしまふことはなくて、だから未来への希望は失はなくてすんだといふ、さういうおはなしですのよ。 悲しいかしら。 むごいかしら。 わたくしには、この本当のおはなしもとても素敵だと思へるわ。 だつてね、未来を知らなひというのは、わたくしたちにとつてさいわひなことだわ。 さうでせう。 だから、ね、その未来が飛び出してゆかなかつたことは、本当に幸福なことなのだわ。 素敵ねえ。 あたたかいおはなしだわ。
 ねえ、もしわたくしたちの出逢ひが運命だとしたら、これからの悲しいお別れか、幸福な未来かのどちらがわたくしたちのもとへやつてくるのか知つていたなら、わたくしたちの恋なんて、ちつぽけでばからしいことだわ。 結末を知つている物語は、それはお芝居ですもの。 偽物だわ。
 さうね、さひわひなことに、まだ誰もパンドラの匣を開けてはいなひけれど、でもね、わたくしには見えますのよ。 非情なる水平線の、おぼろげでぶわぶわした、そんなビジョンが。 ええ、それはもしかしたら間違つていて、わたくしたち、幸福であるかもしれないわ。 けれど、よ。 ここには匣なんてないけれど、それでも、よ。 わたくしたちは……いいえ、言いやしないわ。 言わないで置きませう。
 あ、さうね、ひとつだけ言へるのは、ね、わたくしがあなたを愛してゐるといふことよ。 どうかそれだけは憶へていらしてね。 お願いよ。 約束はしないわ。

(だって、約束ならパンドラもしたわ)


(2006/10/19)