私は今までそこそこ長い年月を生きてまいりました。
しかしその中で、あなたの手のひらほど優しく温かいものにであったことなど、ただの一度もありませんでした。
人も世界も私に対して無関心でした。私はただ一個の、名も無いただの物質として、今までの時間を生きてまいりました。
私はそれに不満を感じてはおりませんでした。
むしろ、憎悪や嫌悪の感情を向けられないだけでも、私はとても幸福であると思っていたのです。 私は物質でした。 ただの物でした。 しかしそんな私にも、役割があったのです。 いいえ、それは役割などとは呼べないでしょう。 私のしてきたことは、とてもおそろしくおぞましいことだったからです。 あなたはとても聡いので、もしかすると私が何者であるか、すでに感づいておられたのかもしれません。 はっきりとはわからなくとも、私が日陰の身であることは明確であったでしょう。 にも関わらず、あなたは私に手を差し伸べ、さらには笑いかけてくださいました。 そのときの私の心と言ったら! 今まで知らなかったものを見た驚きと困惑とで、激しく渦巻いておりました。 けれど、そう、私は嬉しかったのです。 本当に、身に余る幸福に私は怯え、どうしてよいのかわかりませんでした。 ただただ困惑するばかりの私をあなたはゆっくりと、しかし急速に光の中へと導きました。 あなたの隣で見た世界は、何もかもが輝いて、まぶしくみえました。 初めて私は世界を知りました。 世界とは、美しく温かく、そして強いものだったのですね。 あなたが私にそれを教えてくださいました。 あなたの優しさは、私に自分が暗いところで生きるべき人間であるということを忘れさせました。 あまつさえ、ずっと日向にいて、明るい世界を見ていてもいいのではないかと錯覚させるほどでした。 けれど、私がそんな風にして生きていけるはずがなかったのです。 あのまま私があなたの隣に居座り続ければ、あなたに何かしらの害が及んだでしょう。 もしかするとあなたの命を奪う結果となってしまったかもしれません。 そのことにようやく思い当たったとき、私は自分を絞め殺したくなりました。 私のような人間のせいで、あなたが死んでしまう。 それはどうやっても贖いきれない重罪です。 私はあなたの前から消え去ろうと決心しました。 なるべく早くそうしなければならない。 私は強く思いました。 かといって行くあてなどあるはずがありません。 私は結局陽の当たらないところへと舞い戻りました。 日陰の世界は私を受け入れました。 悲しいことに、私のような存在が必要な場所なのです。 私は日陰で、また何人かの人々を屠りました。 あなたの心はとても優しい。 私のようなものに手を差し伸べてくれたのですから、あなたの心は本当に優しいのでしょう。 ですから、あなたは私があなたに黙っていなくなり、日陰で罪を重ねることを悲しみこそすれ、恩知らずと罵ることはないでしょう。 それがまたこうやって一人になった私の心を慰めています。 あなたは過去の幻となってもやはり優しいままです。 また、私は鉄さびに似たあの忌まわしい匂いの中にいるときに、あなたの優しさを思い出しました。 そうやって私は、私がまだ人間であることを確認できたのです。 私は罪人です。 日陰に棲み、人を屠る化け物です。 しかしあなたの幻の側にいるときだけは、私は自分が日向にいる人間と何一つ変わらないように思えたのです。 今、私はとても不思議な気持ちです。 信じられないことに、ここには花が咲いているのです。 私はずっと、私は泥水の中に倒れて死んでいくのだろうと思っていました。 しかしここはそんな穢れからは程遠く、あたりにはかすかな甘い匂いさえ漂っています。 こんなことが許されていいのでしょうか。 私は確かに日向に生まれたはずでした。 しかし私は日陰で生き、自分を物質であると思い、罪を罪と思わないままで生きてまいりました。 しかしあなたに救われ、強い世界を知りました。 安らかさ、温もり、笑い方。それらを知りました。 それから私は自分の意思で日陰に戻ったのです。 それならば、その意思にふさわしい死に方があるはずです。 しかし、これはどうしたことでしょう。 花が咲いているのです。 あたり一面、見渡す限り、白い花が風に揺れてゆらめいているのです。 こんな終わり方をあたえられてもよい私ではないのです。 あなたと共に生きた日々があった。 それだけでも私には過ぎた幸福だったのです。 それなのにこの一面の白い花。 こんな幸福があっていいはずがありません。 だからこれは夢なのでしょうね。 あなたの隣にいることのできた日々。 それが見せてくれる幻なのです。 だとしたら私はなんと幸福な人間なのでしょう。 あなたは、最後の最後まで私の寄る辺でした。 あなたの優しさは私の世界でした。 あなたはもう私のことを忘れてしまったでしょうか。 いいえ、あなたは優しいから、きっと私があなたの心の片隅に居座り続けることを許してくれるでしょう。 あなたが何かの折にほんの少しでも私のことを思い出してくれたなら、私は、私の幻影は日向で生きていくことができるのです。 |