ぬるい水は、喉を過ぎたあたりで体に融けたかのように感触を失った。 釈然としない心持ちでペットボトルを傾けると、水はまた途中で消えたまま流れていった。
「何飲んでるの?」
「水」
 常夜灯の明かりはものの陰影を必要以上にはっきりと浮かび上がらせる。 ベッドの上にうつ伏せで寝転がったアンゼリカのひざの裏のくぼみが、静かな闇を湛えていた。
「それ、水道の水でしょ。わざわざペットボトルにいれてるの?」
「寝てるときとか、台所まで降りるのが面倒で」
 台所は遠い。 誰もいないとわかっていると、一階へ降りる階段がおそろしく長く感じられる。
「わたしが汲んできてあげるのに。氷もいれた、つめたい水」
 アンゼリカの一言は、拾われた猫とそれを拾った人間とを連想させた。 ぼくが猫でアンゼリカは人間。 人間は猫を気まぐれでかわいがり、餌とミルクをやり、飽きたらそのうちまた捨てる。 今のこの状況からすればアンゼリカが猫で、ぼくが人間だというのが妥当な気もするけれど、アンゼリカは捨て猫にたとえるにはあまりにも気高かった。 そしてぼくは人間らしく傲慢で薄情ではあったけれど、たとえ一時の気まぐれでも何かの命を手にすることができるほどの余裕がなかった。
「汲んできてあげようか?」
「いい」
 アンゼリカの隣に仰向けで寝転がると、アンゼリカの手がぼくの方へと伸びてきた。 中指の先だけで、軽くとんっとぼくの腹を押す。
「胃の中の水が体中に行き渡る仕組みって、不思議」
 アンゼリカが誰に言うでもなくつぶやいたその声がとても眠たそうで、ぼくはいつになく優しい気持ちになれた。
「もう寝る?」
「ううん、まだ眠りたくない」
 アンゼリカのつく嘘はどれも透明で心地いい。それはちょうどよく冷やされたつめたい水を連想させる。
「直人。直人が眠ってしまうまで手を握っててくれる?」
「いいよ」
 透明で清らかで澄み切った、優しい嘘。 アンゼリカがまだ眠りたくないと言ったのは、ぼくがまだ眠りに落ちることができそうにないと悟ったからだし、手を握っていてと頼んだのは、ぼくがまだ誰かの存在を感じながらでないと眠れないと知っているからだ。
 かすかに汗ばむ手のひらをぎゅっと押し付けあって、ぼくたちは別々の夢を見る。 アンゼリカが悪夢を見ているときでも、ぼくはきっと幸せな夢に浸って安穏としていられる。 けれどぼくが悪夢を見たときは、アンゼリカはけして幸せな夢は選ばないだろうという気がした。 だからぼくは安心して眠れる。
「おやすみ」
「おやすみ」
 僕たちは別々の夢を見る。