「失くしてしまったの」
 こんな所で、いったい何を失くしたというのだろう。 知らないと言っても、その子はベランダからずっとこちらを見ている。
 その子は真っ白い姿をしていた。 薄ぼんやりとした街灯の色にも染まらずに、更けていく夜の中、唯一無二の白。 まるで体中の色を全て失くしてしまったかのように真っ白だった。
 実際、彼女は色を失くしたのだ、私の部屋で。
「ねぇ、何処?」
 知らない。
「嘘。ここにあるでしょう?」
 そう、知らないというのは嘘だ。
 三日前、まるで夜の一部分が剥がれ落ちたかのような、息を呑むほど美しい暗黒が、ぱさりとベランダに落ちてきた。 手触りは極上のビロード。 手の中でするりと溶けてしまいそうに柔らかかった。
「返して」
 二つのつぶらな瞳からぽろぽろと涙が溢れる。 私はそれを見ながら、カラスは、いや、カラスに限らず鳥というのは涙を流すことが出来ただろうかと、そんなことを考えていた。
 ベランダの柵に止まった白いカラスは、ばさばさと羽を羽ばたかせてガラス戸の前に降り立つと、その白いくちばしでガラスを叩き始めた。
 こつこつ、こつこつ。
 外から中へ、音が飛び込んでくる。 部屋の中の闇を震わせて、軽い音が耳に届く。
 水のように闇が波紋をつくる。 西日に焼けた壁紙、日付が先月のままのカレンダー、壊れたテレビ。 それらに当たっては跳ね返り、消えることなく増長し、やがて部屋の中は闇色の波紋で満ちる。
 あの日、ベランダで拾った暗黒を、私は部屋の中に持ち帰った。 床に置いた暗黒はやがてするする広がり、部屋中に行き渡った。 暗黒は昼間でも私の部屋に闇を満たし、闇は言い表しようの無い安らぎを私にもたらした。
 春の日差しの中の心地よいまどろみ。 カップに注がれた一杯のコーヒーの香り。 真夜中に聞こえる犬の遠吠え。 秋に感じる床の冷たさ。
 闇は全てを内包し、それらのどれでもなかった。 ただ、それらがもたらしてくれる安らぎの何百倍も密度の濃い安らぎを私にくれた。
 一人きりで部屋の真ん中に横になる。 体の片側だけを床につけ、胎児のように手足を縮める。 闇に満ちた部屋の中、私は一日中そうしていた。 けして傷つくことは無く、痛みを感じることも無く。 時々蘇る胸の疼きは、闇が癒してくれた。 どうしてこれを返すことができるだろう?
 ガラスを叩く音が聞こえる。返してよ、と嘆願する鳴き声も。 それらは私の良心を刺激するけれども、その痛みさえも闇は癒した。
白いカラスがベランダで泣いている。私はそれを最早何とも思わずに、昼なお暗い部屋の中で、柔らかな安らぎに浸るのだ。



(2006/03/09)