神さまは世界中にいる。 あちらにこちらにいる。 誰かの後ろで、肩越しに同じ景色を見ている。 その目は青色をしていた。 空と海と、宇宙から見た地球が青いなら、神さまが青色を持っていないはずがないから。
 神さまのまばたきはゆっくりだ。 白い睫毛が静かに降りて、目蓋の下に青色が隠れる。 またたっぷり時間をかけて目を開けて、青色が世界を映す。 見つめられた世界はいつだって隠しきれない多面性で神さまをたじろがせる。 でも神さまの目は優しいままだ。 どうして、と聞いたことがある。 責めるような口調で、追い詰めるような調子で。 そのときも神さまは穏やかなままで笑っていた。
 夏になると、神さまの瞳の青の透明度は低くなる。 懐かしくとろりと濁った青色は、正しい呼び方をすればラムネ色。 僕はそのラムネ色を見るたびに、神さまを責めたくてしかたがなくなる。 理不尽な話だ。 花が枯れるのも、蝉が死ぬのも、神さまのせいではないというのに。 僕は見るからにいらだっているように振舞って、棘だらけの言葉を神さまに向ける。 そうやって気持ちを尖らせる暑さの原因はそもそも人間にあるというのに。
「世界が嫌なものだってわかってるくせに、それが好きだなんて欺瞞もいいところだ」
「そうかな」
「そうだよ。 きれいなものがないとは言わないよ。 でもきたないものが多過ぎるんだ。 できたら生涯見ずに済めばいいって思うものがごろごろ転がってる。 そこらじゅうに。 なのに好きになんてなれないよ」
 コップの中で氷が溶ける。 からん、という音。 畳の上にごろりと横になった僕の隣で神さまはきちんと正座していた。 長い白い髪をなびかせているのは扇風機の風だ。 長く伸ばした前髪の毛先が、ゆるく弧を描いた唇のあたりでふらふらと揺れている。 笑ったままの神さまを見るとどういうわけか後ろめたい気持ちになって、僕は寝返りをうって神さまに背を向けた。
 もう一度、コップの中の氷が溶けて、こんなに緩みきった夏の中で、正しく優しいからんという涼しい音をたてたら、神さまに謝ろう。 僕と同じものを見て、それなのにこんな世界をいとしく思ってくれる神さまはきっと僕にも笑いかけるだろう。
「神さま」
 氷が溶けない。 風が吹かない。太陽が隠れた。
「ラムネを飲みに行くよ」

 太陽が照りつける日に日陰を選んで歩く方が、こんなぼんやりと曇った日に歩くよりもずっと涼しい。 わかっていて僕は雲の下を歩く。 影がはっきりする日は嫌いだ。 僕がいつもたった一人で歩いているということに気がついてしまう。 いろいろなものが少しずつ鈍った、曖昧な日が好き。 ぼんやりとしたものが好き。
 僕の足元からしか伸びていないぼんやりした影から目を背けて、隣を歩く僕の神さまの方に、そろそろと手を伸ばした。 白い指先が、僕の指を絡めとる。 触った感じはしない。 空気を掴んでいるのと同じ。 ただ少しひんやりとしているだけ。 冬の爬虫類の体温。
「どうして神さまは笑うの」
「どうして、とは?」
 まっすぐに聞かれて答えに詰まる。 本当に、嬉しいものや楽しいものを見て笑っているのだったら、僕だって神さまと一緒に笑えただろう。 でも、僕の神さまはそうでないときも笑う。 ニュースで死体が映されていた。 もちろんモザイク処理はされていたけど、おびただしい数の死体がごろごろと転がっていたのを見た。 教室でクラスメイトがクラスメイトを殴っていた。 僕が蹴られたこともあった。 ひどい言葉を口にすることだってある。 子供だけじゃない。 大人だって同じだ。 それどころかもっとひどい。
 この世界には、きれいなものよりもきたないものが多過ぎる。
 信じたくないけれど、神さまはどんなときにも笑っていた。
 こんな悲しいこと、信じたくないけれど、神さまは眉根を寄せて今にも泣き出しそうな顔をしているくせに、それでも笑おうとしていた。
 確かにラムネ色が潤むのを見た。 透明なしずくがぼろぼろ落ちて、畳に染みをつくらないでただ消えていくのを見た。 こんな悲し過ぎること、本当に信じたくないけれど、そのときだって神さまは笑っていた。 顔中ぐしゃぐしゃで、整った顔が台無しだったけれど、僕は僕の神さま以上にきれいな表情をできる存在はいないだろうと思った。
 それでも僕は思う。 思いきり泣けばいい。 無理に笑うことなんて考えないで、この世界にあるきたないものの多面性になんて期待しないで、ただ単純に世界の多面性を嘆けばいい。
「笑わなくて、いいのに」
 僕の肩越しに神さまの見る世界は、僕が見るそれと全く同じだ。 僕は泣くし怒るし不貞腐れるし憎む。 楽しくないときや嬉しくない時には笑えない。
 神さまだって、本当は。
 それを理由に神さまを責めたい。 偽善だと罵れたらどんなにかよかっただろう。 神さまはこんな場所を、本当に愛しているのだ。 嘆きながら微笑んで、何もかもを慈しんでいる。

 瓶では無くてプラスチックのボトルに入ったラムネを少しずつ飲んだ。 隣で一緒に石垣に腰かけている神さまは、ゆらゆらと足を揺らして、ゆっくりと瞬きしている。 ビー玉と同じ色の瞳がきれいだ。
 ボトルの口の部分をひねれば、ビー玉は簡単に取り出せる。 いつだったか、どうしてもこれが欲しいとわがままを言ったら、義兄がラムネの瓶をわざわざ割ってビー玉を取り出してくれたことがあった。 ああいう思い出を、もう誰も持つことはないのだろうか。 ラムネを飲み干したボトルのうら寂しい質量。 それから逃げ出すように、ボトルの口を力いっぱいひねった。
「神さま」
 親指と人差指とでまだ少し濡れたビー玉をつまみ、目の高さに掲げる。 これだけはいつまでも変わらないんだと思うと僕は安心する。 ガラスの静かさに息を呑んだ。
「きれい?」
「とてもきれいだ」
 ガラスの破片の中からビー玉を取り出した義兄も、こうやって僕に鈍い青色を見せた。 ほんの少し誇らしげに。
 渡された小さな塊が嬉しかった。 でも義兄に申し訳なかった。 玄関先に散らばったガラスを片づけるのは大変そうに見えたから。 握りこんだ球の感触だけが確かなまま、どうすればいいのかわからないでいた僕の肩越しにラムネ色を見つめていた神さまは、そのとき僕の耳元に「ありがとうは?」と囁いたのだった。
 それが世界の愛し方だと言うのなら、きっと人間は矛盾と欺瞞だらけでこそ正しい。
「同じ色だよ。知ってた? 神さまの目も、きれい」
「それは褒めてくれているのか?」
「そうだよ。僕はこの色が世界中で一番好き」
 神さまの目の色だから、ラムネ色が好き。 きたない世界を優しく映す神さまの瞳の色だから。 何よりきれいなものだから。
 今顔を上げたら、この場面によく似合う、神さまの優しい笑みを見ることができるだろう。 だから僕はうつむいた。
「ごめんね」
 諭すようにありがとうと言われてしまう前に、しゅわしゅわと泡立つラムネに溶かしてしまいそうになっていたその一言を何とか吐き出す。 それから、僕にできるだけの穏やかさで少し笑って、神さまの手のひらにビー玉を落とした。



(2008/07/31)