僕の世界は僕を巻き込んで静かに動いていく。 景色と色だけが目まぐるしく移り変わる世界に聴覚は要らないものらしい。 誰も、僕に何も言わないまま、僕も、誰にも何も言わないまま、僕の世界は揺り動かされて、落ち着いたときにはそれはすっかり様変わりしてしまっていた。
 一度絵を描いたキャンパスを塗りつぶして上から別の絵を描くことを、惜しまない画家はいるのだろうか。 キャンパスを買うお金と絵を置いておく場所があれば、どんな画家もそんなことはしない。 人間も、人生も、余裕が無くなると駄目なんだ。 そして余裕なんてものを誰も許してくれないんだ。 一度に持つことのできる家族と居場所とは、どうして一つきりなんだろう。
「僕の家族は神さまだけだったらよかった」
「なぜ?」
 少し離れたところから返事は返ってきた。 いつもどこにいても世界から浮き上がるような存在感を持っている神さまの姿が、今は見えない。
「神さまは、ずっと僕と一緒にいてくれるでしょう」
 いつか家族ではなくなってしまう家族ごっこしかできないなら、そんなもの悲しいだけだ。 10年近く一緒にいた僕の家族。 僕が本当に義父さんの息子で、義兄さんの弟だったならどんなにかよかっただろう。 血のつながりなんて関係がなくて、僕は義父さんの息子なんだと言ってくれた。 でも、ずっと一緒にいられないのは、やっぱり僕が他人だからだ。
 熱い空気を吸い込んで、重なり合って神さまを隠す緑の向こう側から、澄んだ声が聞こえるのを待った。 遠くで蝉が鳴いている。 こめかみに浮かんだ汗が首筋へと流れた。
「神さま?」
 ぐるりと一回転して神さまを探す。 背の高いひまわりに囲まれて何も見えない。 緑と、明るい黄色と、ずっと上の方に青色。見慣れた神さまの白がない。
 ひまわりの花と同じ角度で空を仰ぐと、夏の白日が僕の目を射た。 呼吸までもが止まりそうになる。
「神さま!」
 蝉がじいいっと余韻を残して鳴きやんだ。 僕の声は悲鳴のように響いたに違いない。
「ここだよ」
 ひまわりの群れの中から、神さまはふいに現れた。 長い着物の白い裾を土で汚すことなく滑るように歩く神さまの足元を見て、ゆらりと揺れた袂を見て、背中に流れる髪を見た。
「すまない。迷子になってしまった」
 はにかむように笑う神さまはきれいだ。 僕の名前を呼ぼうと口を開きかけた神さまを制するように僕は泣く。 汗なのか涙なのかわからなくなった水が気持ち悪い。 同じ方向を向いた人間の死体のようなひまわりが気持ち悪い。 僕の知らないところで変化することを決めてしまった世界が気持ち悪い。 母さんの新しい幸せを信じられない僕が気持ち悪い。 それから怖い。
 迷子になったのは神さまではなくて、僕の方だ。 きっと僕は生まれたときから迷子だったのだ。 迎えに来てくれるはずの家族を中途半端な場所で待っている、迷子。
 慌てて神さまが僕の正面にやってきて、僕を抱きとめるように両手を広げた。 鳥のはばたきのように長い袖が揺れて、ふわりと包み込まれる。
「大丈夫だ。どんな場所でも、誰と一緒にいても、銀司は銀司だ」
 とうとう諦めたように僕は目を閉じる。 太陽も空もひまわりも何もかも見えなくなる。 風の音と蝉の鳴き声と神さまの気配だけをそこに感じた。 僕の世界はそれと同じ色をしていればよかったのに。 ひまわり畑の外から僕を呼ぶ義兄の声が聞こえた。 僕はこれから涙をふいて、義兄に笑ってみせて、それからさよならを口にするんだろう。
「幸せを探そうな」
 僕を抱き込むようにして立ったまま神さまは、目のあたりを何度もこする僕に、穏やかに力強くそう言ってくれた。



(2008/11/24)