世界は静かで、あんまり加速しない。 それからときどき雨が降る。
 眼鏡の似合わない僕のルームメイトは、今日も黒髪のお嬢さんと、カミフエッタはペレ・ローテルンかオルファレムかで議論したらしい。 カミフエッタはこの街ルレメンテで生まれたとされる菓子で、たぶん国中のどこへいっても舌を満足させるカミフエッタには困らない。 でもルレメンテ市民は、ルレメンテの菓子職人の手で作られるカミフエッタが一番で、他の街のカミフエッタなど足元にも及ばない、と思っている。 中でもペレ・ローテルンとオルファレムは特別で、ルレメンテ市民に最高のカミフエッタはどこで食べられるかと訊ねると、決まってこの2軒の店うちどちらかの名前を聞くことになる。 ちなみに黒髪のお嬢さんことフェミア嬢はオルファレム派。 僕のルームメイト、オーギットはペレ・ローテルン派だ。
「彼女が言うには、オルファレムは、フォークでさっくり切り分けてすばやく口に運んだ瞬間に天使の羽ばたきみたいな甘味が口中どころか体中に広がるんだって。 でもそれならペレ・ローテルンだって負けちゃいないよ。 ペレ・ローテルンの甘味はさ、なんていうか、特別な朝の甘さなんだよ。 でもって、その、ああ、なんだろうな」
 飽きることなく繰り返されるカミフエッタ議論は決まってフェミア嬢の勝利で終わる。 彼女の唇からは流れるように言葉が溢れ、突拍子のない、でも実に的確な比喩が次々に飛び出してくる。 もともとそう口達者ではないオーギットの言葉は、彼女の言葉にするりとからみとられて包まれて、知らぬ間に遠くへと放り出されてしまう。 結局彼は何も言えなくなり、彼女の満足げな笑みを見ることになるのだ。
 ルレメンテ市民で、これほどまでにペレ・ローテルンとオルファレムの番付にこだわる人間はいないだろう。 この二軒がカミフエッタづくりにおいて他の追随を許さない飛び抜けた腕を持っていることは誰もが知っている。 どちらが上かはそれぞれの好み。 決着をつけようだなんて、野暮な話だ、とほとんどの市民は思っている。
 僕が思うに、オーギットとフェミア嬢においてもそれは同じことなのだ。ペレ・ローテルンの味がオーギットの好みなだけであって、彼自身オルファレムのカミフエッタもまたペレ・ローテルンのそれと同じように格別だと内心思っているに違いない。 そして彼女も、また。
「オルファレムのカミフエッタは、たとえるならひとりの少女なんだよな。 軽やかでさざなみみたいな快活さがあって、内緒話のよく似合う……」
「それで黒髪でピアノが上手で、紺色のリボンとクララの制服がよく似合うんだろ」
「ランゼ!」
 つまり、そういうことだ。 オーギットが音楽アカデミーのピアノ科のお嬢さんにお熱だというのは僕らの間ではもう噂にさえならないほどよく知られた話だった。
 扉の方を睨みつけるオーギットの顔は真っ赤だ。 それを見てランゼはけらけらと笑う。
「こんばんはランゼ。 あんまりオーギットのことをからかうのはよせよ。 気持ちはわからないでもないけど」
「オーギットは今日もフェミア嬢とカミフエッタ論争を?」
「そうみたいだね」
「他の話は?」
 オーギットは憮然とした顔で壁紙の模様を眺めている。 だめだこりゃ、とランゼは肩をすくめ、大げさにため息をついた。
「お前がフェミア嬢といい仲になったら、アカデミーの女の子を紹介してもらえると思ってたんだけどな。 ほんとお前の意気地のないのには呆れるね。当てにするのはやめにした」
 一心不乱に壁紙を見つめ続けるオーギットを哀れに思わないこともない。 けれど僕の素直な意見はというと、女の子をうんぬんというくだりを除いて、ランゼと同じだった。
「三か月」
 はぁ、と思いがけず僕もため息。 肺の中に溜まっていた空気を吐き出して、新しい空気を吸う。 ついでに思っていたことも吐き出してしまう。
「君さ、ばかだよ」
 それは十月の終わり、秋晴れの空が気持ちよく澄んでいて、曖昧でとろんとした休日らしい日のことだったと記憶している。いや、忘れようがない。 その一日は、あれからオーギットをからかう格好の話題として、王族の晩餐会のような贅沢さでもって脚色と誇張が加えられ、僕らにとっての伝説の日となったからだ。
 活発で物怖じしないランゼとレクシに誘われて、僕らはクララの学園祭に出かけた。 市内電車に乗ればすぐのところにあるクララと僕らの学園とは、そもそも学校の性質が違うからかあまり交流がない。 けれどこの距離だ。 生徒同士には知り合いが多い。 こちらの学園祭にもクララの生徒が大勢訪れる。 僕らが休日の退屈さを持て余してクララの学園祭に遊びに行っても、何もおかしいことはなかった。 実際クララでは学園で見たことのある顔をちらほら見かけた。
 出不精の僕と内気なオーギットは、ランゼの誘いがなければけして出かけなかっただろう。 その点において、ランゼはオーギットの恋に貢献したと言えるかもしれない。 フェミア嬢とオーギットがどうこうなるかは、今のところ見通しがたたないけれど。
 クララは音楽学校だ。赤レンガの校舎にも、名前のわからない木々の木漏れ日の下にも、音楽があまねく満ちていた。 軽やかに弾むように奏でられる弦楽器、恋人の名前を呼ぶように響く木管。 そうでなくても、祭りに特有の身を落ちつける場所がない感じ、少しも不快でない居心地の悪さにそわそわしていたのに、小さな手で背中をついついと押されるようにして自然と早足になっていった。 浮かれていたんだと思う。 休みの度にあちこちへ出かけていくランゼやレクシと違って、僕は寮にいるか、学校のそばの決まった場所へ出かけるくらいだから。 市内とはいえ、電車に乗ってどこかへ出かけるなんて本当に久しぶりだった。 オーギットも同じだったと思う。 僕ほどではないにせよ、オーギットも出不精なことで知られている。 目に触れるもの耳に飛びこんでくるもの漂う匂い、すべてが鮮やかで、あちこちに目をやってはみるものの、結局はランゼたちに引っ張りまわされることになっていた。 それも、ランゼに引っ張られて前庭をひとめぐりしたかと思うと、今度はレクシに引きずられて階段を駆けのぼったりと、ずいぶん忙しく見て回ったので、昼過ぎにはすっかりくたびれてしまった。
 中庭の音楽喫茶で遅めの昼食を摂ることにした僕らは、真ん中あたりのテーブル席に陣取った。 手書きの看板が吊るされたテントの下に、つやつやときれいに光るグランドピアノが置かれているのがよく見える。 僕らが中庭に来た時には、男子生徒が弾いていたと思う。 少し前に流行した曲。 僕には音楽のことはわからないけれど、さざなみみたいな話し声と一緒に聞こえてくるメロディーは不思議と心地よかった。
 僕らはいつものくだらない、無意味だけれど有意義なおしゃべりに夢中で、音楽が途切れたことに気がつかなかった。 中庭は相変わらずあちこちのテーブルからこぼれるざわめきに満ちていたから。 けれど、そのざわめきがいつしか、波がひくように消えていた。どうしたんだろうと目を見合わせる。
 しん、と一瞬だけ静かになった。 それから、誰かのつぶやきのような声を皮切りに、いっせいに音が戻る。 浮ついた期待と静かな興奮の入り混じる、見たことのない空気。人々はグランドピアノの方を見ていた。 その傍らに立つ少女に、かすかな熱の混じる視線が向けられている。
「ローゼンフェルトだ」
 ただ単純に、人の名前だと思った。 他校の僕らは知らなかった。ピアノの前に両手をそろえて立った生徒、フェミア・ローゼンフェルトは、クララ・フォレッセン記念音楽アカデミー始まって以来のピアノの天才で、神に愛された指と称されるほどの才能をもつということ。 留学先からつい先日帰ったばかりで、帰国してから学校に姿を現したのはその学園祭の日が初めてだったということ。 だから、漏れ聞こえたローゼンフェルトという名前が、あの黒髪の少女の名前なんだろうなと思っただけだった。
 彼女はとてもきれいな少女だった。 ゆるく波打つ黒髪は、夜明け前の薄闇にさらに墨をぼかしたような不思議な色合い。 長めの前髪の向こうに、濡れた紫色が見えた。
 澄んだ瞳が、色めき立つ観客を見渡し、色の薄い唇が緩やかに弧を描く。 それは本当にかすかな笑み。 けれど、僕らの友人の心を射止めるには十分だったらしい。 オーギットはまず手に持っていたサンドイッチを落とした。 サンドイッチは紅茶のカップの中に着水し、上品な飴色の液体が真っ白なパンを悲しく染めた。 カップのふちにはレタスが、ソーサーにはトマトがそれぞれ貼りついた。 次に、組んでいた足を戻すついでにレクシの足を引っ掛けて盛大に転ばせた。 椅子ごとひっくり返ったレクシのズボンの裾に、驚いて立ち上がったランゼのソーダ水がこぼれたところで、我に返ったレクシが彼に食ってかかったものの、すべては徒労に終わった。 オーギットは僕らとは違って普段から真面目な生徒だったけれど、あのときのような真剣さは彼の苦手な物理のテストのときにも見せたことがなかった。 ピアノに向かって椅子に腰かけた少女の肩にはらりとかかる黒髪に、ためらうように鍵盤に伸ばされた真っ白な指に、ふわりと広がったスカートの裾に、オーギットの視線は注がれ、その集中力はフェミア嬢の演奏が終わるまで途切れることはなかった。
 それから瞬く間に三か月が過ぎた。 内気なオーギットからは想像もつかなかった積極性を見せてフェミア嬢と顔見知りになったまではいいが、なぜかいつも彼らはカミフエッタについて議論する。 わざわざ約束をして出かけていっては、飽きることなくルレメンテの誇るこの甘い菓子についてまだるっこしい議論を重ねている。
「オーギットもだけど、お嬢さんも相当だよな」
 オーギットを部屋に残し、ランゼとふたりで食堂へ向かう。 道すがら、大きく伸びをしながらランゼが言った。
「そういう点でもすごくお似合いなんだけどなぁ。 どうにかならないもんかな」
「こればっかりは本人たちの問題だからね」
 いつも率先してオーギットをからかうランゼだけれど、不器用な友人の恋がうまくいくことを誰より願っているのもまた彼だった。 あーあ、と、オーギットよりもよっぽどふさぎ込んだ顔をしてうなっている。 ルームメイトの僕の方が、よっぽど彼の恋をおもしろがっている。 もちろん、オーギットとフェミア嬢が並木道の下で手をつなぎ、カミフエッタ以外の他愛ない話をする日が、早くこればいいと思ってもいるけれど。
「そういう君はどうなのさ」
「俺?」
「うん。 何かないの、浮ついた話。 不器用なりに精いっぱいのルームメイトが君にさんざんからかわれてるのを見るのも、まぁおもしろいけど、ごくまれに気の毒に思うこともあるから、君が自分のことに手いっぱいになればどうかな、と思った」
「どうかな、って。どうなんだよ」
「とってもおもしろいだろうね。 今度はオーギットと一緒に目いっぱい君をからかおう」
 気さくで何にでも首をつっこむランゼには友人が多い。 少し調子がよすぎるところが欠点といえばそうだけれど、ひねくれたところがなくて誰にでも楽しげに応対するランゼは、見目がいいこともあって、女の子から好意を寄せられることが少なくない。 けれど決まった誰かに夢中だという話は聞いたことがないし、本人もそんな素振りを見せたことがなかった。
「残念ながらないね」
「ふぅん」
「つまらない?」
「つまらない」
「じゃあお前がすればいい。 恋ってやつを」
 その手には乗らないよと笑って言おうとしたものの、ランゼがずいぶんと真剣な顔をしていたものだから、言いかけた言葉を呑みこんでしまった。 それと同時に、思わず彼の方を向いてしまう。 ゆっくりと彼も僕の方を向く。 わざと真面目くさった顔をしているのではない。 あんまり突き詰めたものだから、感情を顔に乗せることがおろそかになった、つるりとした仮面のような顔がそこにはあった。目が合ってしまったので、しかたなく立ち止まる。
「本気で言ってるの?  僕に恋をしろって。 女の子を好きになれって」
「本気だとも」
 早く冗談にしてしまわないと。 肌から浸みてきそうなほどに甘ったるいものの気配を感じ取ってしまいそうになって、妙に気持ちが焦った。 得体の知れない彼女たちについて、予感はあっても、わかりやすい形のあるものを見ることは一度もなかった。 そういうものは僕にとってはまだ見知らぬもので、想像するだけで背中の辺りがぼうっとなるようなうすら寒いような感じがして、ぼんやりとむずがゆく、居心地が悪い。
 そのときわかった。きっとランゼもそうなのだ。 僕は関らないことで、ランゼは関ることで、けして近づかないようにしている。 女の子は偶像だ。 少なくとも今はまだそう思っていたかった。 僕らと、僕らの思い描く彼女たちの間には深くてとても埋められない溝があるのだと決めていた。 自分でも思わず笑ってしまいそうになる。 あまりにばかばかしくて、ちっぽけな決まり事。 けれどどうしようもないのだ。 オーギットのように、いつの間にか当人でもそうと気がつかないうちに、僕らはその溝を消し去る。 そして恋をするのだろう。 けれど、臆病な僕はまだ溝が虚構であることを認められない。 だから知らない振り。 描いた偶像を直視することもできずにいるくらい、慎重で理性的で、だからこそとても幼い。
 オーギットは勇敢だ。 クララの中庭で黒髪のお嬢さんを目にしたとき、自分の中から湧いて出た初めて見るものに向き合い、きちんと噛み砕き、自分のものにして見せたのだから。 もちろん、フェミア嬢も。 カミフエッタ論争についてはさすがに呆れずにはいられないけれど。
「そんな顔するなよ。 なぁ、俺らにはまだ恋より甘美な誘惑がある。そうだろ?」
 ばんばん、とランゼが僕の背中を叩いた。 遠慮がちな乱暴さに魂を吐き出しそうになる。 ぐえ、と大袈裟に呻いてみせてから、当てずっぽうで腕を振り回す。 ランゼはそれを一歩飛びのいて軽々と避け、けらけらと実に楽しそうに笑った。 そう、ランゼはとても優しい。


(2010/06/30)