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  3 火曜日 - 真


 あんなに透き通るように青くて瑞々しい空がよくできた冗談だったかのように、昨日の夕方に雨が降り始め、それがずっと続いている。 痛むことが当たり前になってしまった。 思い出によく似た砂のような塊を引きずって、嫌いになったはずの雨に焦がれたことへの罰のようで、きいきいと体が悲鳴をあげる度に、体中をかきむしって笑いころげたいような気持ちにさえなる。 唇の端が跳ね上がりそうになるのを、咳をしてごまかす。 兄さんは今いないから、そんなことをする必要はないのだけれど、僕は、僕に対して偽りたかった。 この体には、悲しいもの、苦しいものしか詰まっていない。 その代わり、救われるだけの重さを得ている。だからこの目は幸福を見ることができる。 きれいで澄んだ世界。 僕の目にはそんな世界しか映ってはいけない。
 テレビを見ようと台所へ行くと、兄さんが流しに向かっていた。 ごくごく小さな声で歌を歌っている。 きみがどこかにいるから、地平線が輝いている。 そんな歌詞の、よく知られたメロディー。 手早く野菜の皮をむきながら、兄さんは繰り返し同じ部分を口ずさんでいる。 そこしか覚えていないのだろう。 再生と巻き戻しを繰り返すカセットテープのように、兄さんの低い声が同じ旋律をなぞる。
 ふいに喉元をくすぐられるようにいたずら心がわいてきて、兄さんの声に重ねてメロディーをたどってみた。 驚いた兄さんがじゃがいもを取り落として、こちらを振り向く。
「起きてた、のか」
「うん」
 さっきとは違うあたたかい理由で笑みが浮かんでしまう。 憤慨した様子の兄さんにごめんごめんと謝って、手元を覗き込んだ。 にんじん、じゃがいも、机の上には冷凍の豚肉、まだ袋に入ったままのさやいんげん、それからしらたき。
「肉じゃが」
「真にはやらない」
「やだな。ごめんって。黙ってもっと聞いててもよかったの?」
 自分の席に座って、テーブルクロスのしわを指先でなぞった。 料理をする兄さんを見るのは好きだ。 話をするのはもっと好きだ。 少し丸まった背中に話しかけると、肩越しにぽつぽつと言葉が返ってくる。 手元の作業に集中している兄さんの返事はどこか穴が開いていて、でもそれが心地よかった。 風通しがいい場所に干されたよく乾いたタオルを連想させる。 手に取ればかすかにあたたかく、頬を押し当てると少しごわごわとしていて、焦げたような埃の匂いがする。
 夕方の台所はどこか寂しく、誰かの服の裾を掴んでいたい気分にさせる。 それが雨の日だとやわらぐような気がする。 心の痛みよりも体の痛みの方がわかりやすいからかもしれない。 にいさん、と空気を動かすだけに留めて、小さく呼んでみた。 兄さんは気がつかない。当然返事もない。 野菜の皮を剥き終わったらしく、包丁がまな板を叩く小気味のいい音が聞こえる。 食べやすく、火が通りやすいように、小さく切られていく野菜。 言葉や気持ちも、そうやって切りわけられるなら、きっと人は今よりも傷つかない。
 明日の話をしよう、と思った。 話題はいくらでもあるような気がした。 明日の授業は何。 明日の夕飯は魚が食べたい。 明日は本でも読もうかな。 明日、晴れるかな。
 手元をせわしなく動かすにつれかすかに揺れる背中を見ながら、結局何も言えないでいるうちに、料理を終えた兄さんは僕の向かいに座った。 テレビ見るんじゃないのか、そう言ってリモコンで電源をつけてくれたけれど、もともとそれほど見たいわけでもなかった。 のどかなローカルニュースは何となく耳に届いて、理解しようとしなければ留まらずに消えてしまう。 ぼんやりと眺めていると、やがて全国ニュースに替わった。 スペースシャトルが宇宙へ行くらしい。日本人は1人。
 会ったこともない人の、もしもの死に様を想像してみる。 僕が一番恐ろしいと思う死に方だ。真っ黒な宇宙に浮かんで、半分だけがさえざえと青い地球を眺めながら、自分の行く末を知りながら死んでいく。 やがて地球の輪郭が滲んでいるのは大気のせいか涙のせいかもわからなくなるだろう。 帰れない。 骨のかけらのひとつさえ戻らない。すべてから隔てられ、ただ焦がれることだけを限りなく許されている。
 最後の交信が行われるかもしれない。 小さな画面に家族の顔が大きく映されて、宇宙飛行士はそのかたい頬に手を伸ばす。 重力と真空とタイムラグに隔てられ、いとしい人との距離はもう無限に遠くなっていくばかり。 抱きしめることは、もうできない。
 あ、泣いてしまいそうだ。
 自由な右手を伸ばして、目の下の皮膚がやわらかいところに指先を触れさせた。 軽く押さえると、ぬるい液体が目の端に薄く乗る。 それを爪の間に吸い込ませるようにして拭った。 兄さんには気づかれていない。
 兄さんに、兄さんが一番恐ろしいと思う死に方は何かと尋ねたことがある。 そのときの兄さんの顔を忘れられない。 いっさいの感情の、かけらさえも肌の上にのせず、ただ僕を見ていた。 兄さんの意思では目を逸らせないのだと言わんばかりに、僕に鉄のかたさをもつ視線を注いでいた。 人形のようだと思った。それほど、つくりものめいて見えるほどに、兄さんからは一瞬にして人間らしいものが抜け落ちてしまっていた。 触れば冷たいような気さえした。 怖かった。 そのとき兄さんが何を考えていたかなんて僕にはわからない。 僕に理解できたのは、僕のたった一言で、兄さんは失われるのだということ。 今の僕にはそれができてしまうのだということ。 それだけだ。 けれどそれで十分だった。悲しんだり絶望したりするには、それだけで十分だ。
 ニュースはまたローカルな話題を報じていた。 キャスターの声のうしろで、祭囃子が聞こえる。 かすかに耳に届く感じが、妙にくすぐったく、甘ったるく切ないような気持ちを思い出させる。
「祭り、行きたいな」
「まだ早いだろ。あれは獅子舞だから」
「夏まで待つよ」
 ほんの一ヶ月ほどだ。 そうだけ待てばもう夏になる。 肌を包む熱気や蝉の鳴き声や空の高さを狂わせる雲。 僕と兄さんが生まれた季節。 今年の夏が過ぎれば兄さんは二十になり、僕は十七になる。 僕にとって、いつが最後の夏になるのだろう。そう思っても、けして口には出さない。
 少し風変わりな獅子舞は、ここ十年ほど行われていなかったらしい。 これからは絶やさず続けていきたい、と青年がカメラに向かって語る。 場馴れした、それでも少しはにかんだような笑顔を見ながら、僕はその祭りが十年、百年続けばいいと思う。 もう世界の終わりを夢みない。 当たり前にここにある空気が、温度や湿度を変えながらも、千年先までたゆたい流れていけばいい。 兄さんや、兄さんの息子や、孫や、その孫が、今と同じ空気の中にあるといい。 それがどんな風なのかは、うまく想像できないけれど。
「明日も雨かな」
 明日。それだけが確かなものだ。


(2010/05/20)