2 月曜日 - 諒


 昨日から雨が降り続いてる。 強い風に雨粒が飛ばされて、ばたばたと窓ガラスを叩く。 その音でいつもよりも早く目が覚めた。 温かい寝床から体を引き抜くようにして抜け出して、髪も服もぐちゃぐちゃのまま、冷たい廊下を踏む。 家の中は静かだった。外の激しい雨音がそれ以外の些細な音をかき消してしまうから、まるで世界の終りに1番近い雨の日のように、今日の朝は僕の胸を圧した。
 台所でミルクティーとココアを用意して、それぞれの入ったカップを両手に持って廊下を戻る。 板張りの床は心なしか湿っているように思えて、靴下や部屋履きに守られていない足の裏が心もとなかった。 何千回も通ったはずの家の廊下は、次第に他人行儀になっていく。 小さな頃に走り回った廊下は、もっと寛容だったはずだ。
 僕の部屋を行き過ぎて、その隣。 ドアにこつんと額をぶつけて、中の様子をうかがう。 もちろん、そんなことをするまでもなく、真が起きていることはわかっていた。 雨の朝の真は早起きだ。
「真」
 返事を待たずに、肘を使ってドアを開ける。 温度差のない部屋と廊下の空気が混ざって、壁際に置かれたベッドの中で真が身じろいだ。
「ココア……?」
「それとミルクティー」
「ミルクティーにする」
 毛布の隙間から伸ばされた右手は、薄暗がりの中でぼんやりと白い。 手招きしているようにも、すがろうとしているようにも見える。 海面から、波に洗われた気配のない手のひらがふいに表れたなら、こういうふうに見えるのかもしれない。僕の知らない場所から伸ばされた細い手首に浮かぶ、これもまた細い静脈の青に嘲笑われた気がした。
 ココアの入ったカップは床に置き、空いた片手で真の手を取る。 半開きの手のひらにミルクティーの入ったカップを押し付けた。 温かいカップを持っていた僕の手に、真の手はひやりと冷たい。
「ちゃんと起きないとこぼすぞ」
「寒い」
「雨だからな」
 意識的に繰り返す真の浅い呼吸は、雨音にかき消されて聞こえない。
「……痛い」
「雨、だからな」
 真が毛布の下で身を起こすと、きぃと体の軋んだ音がした。 ばたばたという雨音がふいに弱くなったときだった。 耳に残る、その音。 僕はその偶然を悲しく思う。 こうして、何の前触れもなしに、真の体がもう前のようではないことを僕に思い知らせる些細な出来事を、僕は恨む。
 始まりは2年前、左手の指先からだった。 真が指先の感覚を失ったとき、薄い皮膚の下にはもう赤色をしたものはほとんど残ってなかった。血と肉とが、硬く冷たい機械へと変わっていく病気。 感覚を奪い、動きを奪い、いずれ人を人でなくしてしまう。内臓も脳もなにもかもがその形を変えたとき、真が迎えるのはたぶん死ですらない。 真を失うということが、避けられないことなのなら、せめてそんな恐ろしい形でなければよかった。
「飲まないのか? 冷める」
「飲む」
 カップの縁によせた唇は色を失っていた。 それでもその下にはまだ僕と同じ色をした血が巡っているのだと思うと、今にも泣き出してしまいたい気持ちになった。 近ごろ、真の人間の部分に触れるたび、喉から胸にかけてが熱くなる。声が大きなしこりにでもなったかのように、今までと変わらない呼吸をすることが難しくなる。 それからすうっと寒くなる。 頭や顔や目元に集まった熱が、一気に冷えて、僕から何かを奪っていく。
「コップあとで取りにくるから、飲み終わったら置いといて」
 中身の半分以上の残ったカップをひとつ手にして、真の部屋をあとにする。 その日の授業は午後からだったから、コーンフレークで適当な朝食を摂ったあと、台所でずっとテレビを見ていた。 雨があがると空はすっかり明るく、太陽があちこちを何のためらいもなく照らした。 衛星放送の陰鬱なモノクロ映画でさえ、白と黒、それから灰色という鮮やかな色を与えられたかのようだった。
 食事をするように毎日を生きていくこと。 みずみずしい野菜や脂できらきらとした魚、透明な水。 それらにたとえることのできる僕の日常は、まるごとすくってさらわれたようにどこかへ行ってしまった。 それでも日々はきれいだ。こんなにも。
「おはよう。大学は?」
「今日は午後から。雨やんだな」
「うん。助かる」
 ようやく部屋から出てきた真は、体の痛みにふせっていたことが嘘のように明るい顔をしている。 きっとあれからもよく眠れなかっただろうに。
「コーンフレークまだある?」
「チョコパフィなら」
「じゃあそれでいいや」
「座ってろよ。よそってやるから」
「ありがとう」
 白い皿にチョコパフィをざらざらといれる。 真は最近あまり食べなくなった。 僕はそれを責めない。ただ、真に準備する食事の量を減らしはしないだけ。
 ときどき考える。 まだなんともないころの真と、病気になってからの真とを、僕は違う人間のように思っていやしないだろうか。 やわらかく、時間をかけて、病気よりも僕が真を蝕んでいるのかもしれない。 そうして少しずつ真の心をえぐりとって、健やかな形を留められないほどに崩してしまうことが、僕の役割だったとしたらどうだろう。 それは病気の弟をいたわる兄という立ち位置よりも難しく、だからというわけではないけれど、ずっと優しく、歪みのないものにさえ感じられる。
「帰りは遅いの?」
「実習だから。何時になるかはわからない」
「そっか」
 いくつもの言葉。 交わされる日々の会話を、ひとつひとつ記憶しておくことはできない。 ありきたりな会話や、独り言のようにこぼした言葉こそが、本当に得難く、何かと引き換えにすることなどできない、真実に大切なものであるというのに。
 言葉だけでない。 真と僕との些細な関わり。 同じ場所で同じように息をしていることさえ、足がすくんで身動きできなくなるほどの幸福だ。 皮肉なことに、そのことに気づくということが、そもそも不幸の一端なのだけれど。


(2010/04/09)