1 日曜日 - 真 濁った空を見上げて、何となく、雨が降らないかなと思った。 小さな水のかたまりが、初めはしったんしったんと落ちてきて、やがてぱたぱたと軽やかに降り注ぐ。 いっそごうごうと勢いよく降り始めてくれてもよかった。 雨が好きだった。 2年ほど前までは、僕の心の表でも裏でも、確かに好きだった。 雨のカーテンに隠されると、生まれたときから暮らしているこの小さな家がぽつんと取り残された箱舟のように思えた。 そのうら寂しいような浮足立つような感じが好きだった。 今は嫌い。 雨の日は体が軋んで痛む。 雨音を聞くだけでぐしぐしと肉が蝕まれていくような気さえする。 左手を抱え込んで目を閉じるとき、進んでいく時間に、自分とこの家だけが取り残されていくように思う。 過去に僕を繋ぐ箱舟。 でも今日はどうしてだか、空を見上げて嫌いなはずの雨を待っている。 大学が休みの兄さんが家にいるからかもしれない。 ひとりじゃないなら、取り残されてもいい。 ぼんやりとそう思って、それから一拍遅れて、ぞっとした。 背筋が一瞬で冷えて、顔がかっと熱くなる。 小さな頃、休みの日に雨が降ると、洪水ごっこをして遊んだ。 必要なものは全部家にあるから、準備は必要なかった。 船も、積み込む荷物の用意もいらなかった。ただざぁざぁと激しい雨が降るだけでよかった。 「もう一カ月も雨がやみません、日本は、いいえ世界は、どうなってしまうのでしょうか」 テレビの横に立って、悲壮な顔のアナウンサーの真似をすることから、洪水ごっこは始まった。 兄さんと僕とは、政治家になったり消防隊員になったりしながら、長く降り続ける雨に怯えるふりをしてはしゃいだ。 「大変だ、堤防が決壊したぞ!」 2階の窓から外を見て、兄さんが、あるいは僕が叫ぶ。家から見えるところに川はなかったけれど、東の窓から川が見えるということになっていた。堤防の決壊が洪水の始まりで、僕らは興奮して無邪気に惨事を楽しみ、叫びながら家中を走り回った。 「すごい水だ」 「もうこんなところまで」 堤防の横っ腹に穴をあけ、そこから人間の住むところへと、どうどうと流れ込んでくる水。 茶色く濁った凶暴なばけもの。 川の水だけでない。 あちこちから水が向かってくる。 電信柱をなぎ倒し、学校の窓ガラスをすべて割り、停まっている車を押し流し、水はついに僕たちの家までやってくる。めまぐるしく繰り広げられる空想。とどまることをしらない僕らの空想はまさしく洪水のようだった。 「流されちゃう!」 つくりものらしい陳腐な悲鳴をあげて、僕と兄さんは居間でぐるぐると回る。 両手を挙げたり、抱き合ったり、床に寝転がったりして、水に押し流された家の中でもみくちゃになる。 思うままに散々暴れ、やがて床の上にうつ伏せになる。 そのままじっと動かない。 揺れに翻弄されているうちに気絶してしまうのも、いつものことだった。 「うーん、大丈夫か、真」 「僕はなんともないよ。それより、外はどうなっただろう」 芝居がかった言葉を口にしながら、ゆっくりと体を持ち上げる。 それも決まった手順。 冷たい床から体を引きはがし、何度も繰り返したように、兄さんと連れだって窓辺に立つ。 絶望と高揚を想像して、一度は冷めた不思議な興奮が蘇る。 そこにあるのは水。 ぴたりと凪いだ水面はきらきらと光ってきれい。 深く澄んだ水を覗き込んでも、何一つ見えない。 海ではないから波はなく、水は塩辛くない。 湖ではないから果てはない。 ただ、水がそこにある。 僕らの家をたったひとつ残して、世界のすべてを呑みこんで、素知らぬ顔をしている水。 そんな、空想。 「兄さん」 「みんな沈んじゃったけど、僕らは無事だったね」 「うん。よかった」 洪水遊びはたいていそこで終わりだった。 何もかもが沈んだ世界での暮らしは退屈だったし、新天地の探索はあまりに希望にあふれていて僕らの興味をそそらなかった。混乱とそのあとの静かな絶望とが洪水のすべてだった。 あの遊びは兄さんとふたりだから楽しかった。 ひとりでするにはあまりに寂しく、恐ろしい。 洪水遊びに限ったことではない。 いつでもひとりは恐ろしい。 そう、ふたりで取り残されるならつらくない。 けれど、僕はひとり取り残されなければならない。 それを悲しいとも不幸だとも思わず、つらさや痛みを感じず、雨粒が地面に落ちるように、水がすべてを覆うように、僕はひとりにならなくてはならない。 時間と世界と兄さんと、それから何だろう。 生き続けるものすべてに、置いていかれる。 血の巡らない体を抱えて僕は、進まないで、ここに居続ける。 だめだ。 体が動かなくとも、心が震える。 先に行く兄さんを見送りたいのに、その袖を掴んでしまいそう。 ひとりは、とても寂しく恐ろしい。 真冬の雪の中で微動だにしない電信柱のように。 蛍光灯の下で売れ残るコンビニのサンドイッチのように。 体が痛み始める。 やはり雨が降るのだ。 ひどい雨になるだろう。雨粒が無頓着に落ちてくる乱暴なそれを、かつて僕は好んだ。 雨。 見つめる先で、空から地面へと無色の糸が伸びる。 今は、雨が降るたびに、体より先に心が死ねばいいと、不義理で無遠慮なことを思う。 ただの独りよがりの自虐なら、ずいぶん惨めでくだらないけれど、思ったっていいだろう。 そしてぐずぐずと泥の中であがきながらだめになっていけばいい。 けれど許されないのは、僕が僕を大事に扱わないことが、僕を取り巻く人を傷つけるからだ。 僕を守り、気遣い、許し、慈しんでくれる人がいる。 他でもない僕自身が僕の存続を望まなければ、僕の大切な人たちが理不尽に苦しむ。 それは、とても罪深いこと。 でもきっと、誰にとっても優しいことだ。 このうえなく、吐き気がするくらいに優しいことだ。 (2010/04/09) |